三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第20回は「無知への無知」について考える。
無意識に「わかった気になる」ことはないか?
東京大学現役合格に向けて、動画で学んだことを「互いに教え合う」授業を始めた早瀬菜緒と天野晃一郎。「教える」学習に手応えを掴んだ早瀬に対して、天野は途中からしどろもどろになってしまう。しかし、動画の内容をそのまま喋っただけの早瀬を、先生たちは「わかった気になっちゃうタイプ」と酷評した。
私も時々、「わかった気になる」ことがある。そして当然、「わかって気になっていた」という事実は後からしかわからない。
藪から棒で恐縮だが、何も見ずに(できるだけ短い時間で)自転車のイラストを描いていただきたい。
描き終わったら、実際の自転車と見比べてほしい。あなたが描いたイラストではチェーンが前輪と後輪を直接結んでいたり、ペダルがサドルと同じ高さになっていたりしてはいないだろうか?
リバプール大学のレベッカ・ローソンが行った同様の調査では、正確なイラストを示せたのは、回答者の約半分であった。
要するに、我々は想像以上に何もわかっていないのである。
2021年に出版された書籍『知ってるつもり 無知の科学』(スティーブン スローマン、フィリップ ファーンバック、土方 奈美 〈翻訳〉 、早川書房)では、このような調査事例を多岐に渡り紹介し、いかに我々が無知であるかを述べている。
あなたはファスナーや、トイレの水が流れる仕組みを説明できますか?
恥ずかしながら、私はこの問いに答えることができない。ただ同時にこうも思った。別に知らなくとも損をすることはないじゃないか、と。
しかし、この本は私の思考を読んだかのように話題を転換する。アメリカで出版された本であるだけに、具体例がアメリカに寄るのは容赦願いたい。
2010年にアメリカで成立した「オバマケア」をめぐる最高裁判決に関してである。この判決に賛否を表明したのは76%であったが、全体の40%がそもそも「オバマケア」が法律であることを知らなかった。
あるいは、次の例はどうだろうか。オクラホマ州におけるアンケートである。「遺伝子組み換えが行われた食品は、その表示が法律で義務化されるべき」と回答したのは80%である。
しかし、「DNAを含む食品は、その表示が法律で義務化されるべき」と答えたのも、80%であった。生物由来の食品は、必ずDNAを含むというのに。
つまり、我々の無知、もっと言えば「無知への無知」は民意として政治や経済にまで広く届けられうる、ということだ。
「正しい」の判断基準は、どこにあるのか
例えば今話題になっている「103万円の壁」にしたって、一から十まですらすらと説明できる人はごくわずかであるに違いない。
すぐには説明できないが、そんなのは調べればわかる、私はそう思った。しかし、本書は「どのように調べるのか。どのような基準で『正しい』と判断するのだろうか」と問いかける。
その基準となりうるのが、自分が属している集団の「コミュニティの知」である。親がこう言っていた、インフルエンサーがこう言っていた、などの無意識に信頼を寄せている人の意見は、時に専門家の意見を退けるほどに重要視される。
アメリカにおいて、新型コロナワクチン接種の可否を判断するのに寄与したもっとも大きな要因は、年収や学歴ではなく、支持政党であったという。
偏在する「コミュニティの知」は情報化社会の今に至って社会を分断し、時に恐ろしい帰結をうむ。近年の「新語・流行語大賞」が違和感を持たれているように、もはや社会全体を俯瞰する「コミュニティの知」を見出すことは難しい。
だからこそ、時に否定されがちな暗記に再注目すべきではないだろうか。もちろん、暗記だけで勉強を完結するのはよくない。
だが、暗記からのペーパーテストという非常にシンプルなシステムは、一時的にではあるが「コミュニティの知」から解放し、否応なしに「個人の知」での思考を余儀なくさせる。
そしてそれは「自分は何を知らないのか、理解しきっていないのか」を見つめ直す時間でもあるのだ。