江戸時代に85歳まで生きた杉田玄白の「7つの長生きルール」杉田玄白記念公立小浜病院の正面に設置されている杉田玄白の銅像 Photo:Haruno Akiha~commonswiki

いまでこそ世界的な長寿国を名乗る日本ですが、江戸の末期でも45歳ほどと短命でした。ところが歴史に名を残す偉人のなかには、平均寿命をはるかに超えて長寿をまっとうし、偉業を成し遂げた人々がいます。短命と言われる中世・近世にあって、なぜあの人物は長生きできたのでしょうか。武光誠さんの新刊『日本史を生き抜いた 長寿の偉人』(青春出版社)から、『解体新書』で有名な江戸時代を代表する洋学者、杉田玄白(すぎたげんぱく)の生涯と長寿のヒントを紹介します。

玄白が実践した7つの健康ルール『養生七不可』

 杉田玄白〈本名・杉田翼(たすく)〉は『解体新書』で有名な江戸時代を代表する洋学者である。

 玄白は小浜(おばま)藩主酒井家の江戸下屋敷で生まれた。かれの先祖は近江(おうみ)源氏佐々木家の流れをくむ武家であった。そして玄白の祖父は蘭方医(らんぽうい)やオランダ語通詞(つうし)から蘭学や医学を学び、武士身分の医家として杉田家を興(おこ)した人物だ。玄白が生まれる30年前にかれの父は小浜藩医になっていた。

 玄白は父の仕事のため8歳から13歳までの間だけ小浜に住んだが、それ以外は江戸勤めの父とともに江戸で暮らした。おかげでかれは学問を始める幼少期と14歳からの青年期以降に、大都市・江戸で最新の朱子学(しゅしがく)や蘭学・医学を身に付けることができた。

 青年期の玄白は朱子学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)の兵書に触れ、そこから人間の体の仕組みを掴(つか)んで治療を行なう西洋医学にひかれた。のちに玄白は幕府の奥医師・西玄哲(にしげんてつ)に蘭方外科を学んだ。おかげで玄白は、江戸一の蘭方医と呼ばれるようになった。

 江戸時代としては長命な85歳まで生きた杉田玄白には、健康の7つのルールがあった。