○昨日の事は恨まない、悔やまない。
○明日の事は悩まない。
○飲み過ぎない、食べ過ぎない。
○腐ったり傷んだりした食べ物は食べない。
○何でもない時に薬を飲まない。
○元気でもむやみに寝所で精気を費やさない。
○体を動かさずに怠ける事を好まない。

 玄白はこの7つのルール、つまり健康のための7つの不可事(ふかじ)を、古希(こき)を迎える前年に『養生(ようじょう)七不可』という刷物に簡易な言葉でまとめて、知人に配っている。

 多病がちで、早くから実母、養母、兄といった近しい人を亡くしてきた玄白は、健康に気を使ってきた。かれはその成果を『養生七不可』にまとめて、知人らに広めたのだ。

 この『養生七不可』からみて、素食と適度な運動が玄白に長寿をもたらしたようだ。

 さらに玄白は、「病気はなるべく自分自身の摂生(せっせい)で治せ」という考えの持ち主であった。後輩の医者にあてた玄白の書簡が残っているが、その中に次のような記述がある。

「ある患者の診察についての御相談の手紙を頂戴しました。そこの見立ては良いが、治療法が大袈裟(おおげさ)です。手当ては、ほどほどにしなさい」

日本の西洋医学を発展させた『解体新書』

 若き日の玄白は、21歳で父の後を継いで小浜藩医となった。藩医の給与は、30人扶持(ぶち)で、年50石(こく)程の収入となる。現在の金額なら年収1080万円程だ。藩医の仕事を無難にこなすだけでも、豊かな生活は送れた。しかしかれは医学を究(きわ)めようと熱心に勉学に励み、机上(きじょう)の学問だけでなく、実地で得る経験も重んじた。

 そうしてオランダ通詞や洋学者たちと交流する中で、30代になっていた玄白は人体の構造を詳しく記したオランダの『ターヘル・アナトミア』に出会った。蘭方医らと解剖(かいぼう)を見学したとき、オランダ医学の内臓の図表が正確であると確認すると、玄白を中心とした蘭方医たちは『ターヘル・アナトミア』の日本語訳に着手した。