玄白が完成をあまりに急ぐので、翻訳仲間で一回り以上年下の20代前半の若手達に笑われた。しかし多病がちな玄白は、日本人の平均寿命を考えても、30代後半の自分が長い事時間をかけていては翻訳を完成できないと焦(あせ)っていた。苦労を重ね、4年後に翻訳は『解体新書』全5巻として完成した。『解体新書』はひろく読まれ、日本における西洋医学の発展に大きく貢献した。
『解体新書』出版のとき、玄白は42歳になっていた。現代では壮年期だが、江戸時代の日本人の平均寿命としては晩年ともいえる年齢である。
しかし医学者としての玄白の仕事は、更に進展していく。「天真楼(てんしんろう)」という医学塾を営み、多くの洋学者、蘭方医を育てた。また「病論会(びょうろんかい)」という勉強会の中心人物として、同時代の主だった洋学者との交流・研鑽(けんさん)を重ねた。
バリバリ働き、多趣味に生きる
玄白の残した『鷧斎日記(いさいにっき)』という日記の中から享和(きょうわ)3年(1801)の部分を見ると、古希の前年にも関わらず、玄白が忙しく過ごしていた有り様がわかる。藩医として若狭(わかさ)藩の江戸屋敷に出仕し、月1回病論会に出た上で、1年間に557か所に往診していたのだ。
多くの仕事をこなしていたおかげで、かれの年収は現代の価値に換算して平均7000万~8000万円程度になっていた。しかしこの高収入も、主に高額な洋書の購入や、学問の研究などの出費で消えていった。
玄白はただのワーカホリックではない。仕事に打ち込みつつ、健康に気を付け、多様な趣味を楽しんだ。連歌(れんが)、漢詩、和歌、俳諧(はいかい)を学ぶと共に、洋風画家に絵を習った。かれは健康のための7つのルールを守り続け、長寿への道を歩んだ。
そんな玄白も、84歳の時に記した『耄耋独語(おいぼれのひとりごと)』では、身体のあらゆる箇所の不自由な事、辛(つら)い事を丹念に書き連ねている。目、耳、歯が衰え、呑み込むのも排泄にも苦労していた。認知症では無かったが、年相応の物忘れに苦心した。