その他に春画は嫁入り道具として求められたほか、武士の弾除け、衣類の虫除け、さらには火除けの効能まで信じられていた。その根底には、性事と超自然の呪力との結びつきがあろう。陽物(生殖器)信仰はその典型で、日本各地にみられる。まして春画の性器はとんでもなく巨大に描かれており、江戸の民が一種の神通力を感じてもおかしくはない。

 このように、春画は卑俗で卑猥ではあったが浮世絵のジャンルとして認知され、武家から庶民にまで男女を問わず広く愛された。

 とはいえ、春画が本屋の店先で堂々と売られていたわけではない。

蔦重と歌麿が制作した
春画の最高峰

 寛政の改革でも春画禁令が発布されている。それでも蛇の道はヘビ、春画は求める客が多かったからこそ供給された。江戸時代を通じて総計3000点近い新刊の春画が制作されたという。特に貸本屋ルートは春画流通の要、江戸の各戸を回る業者たちは荷の奥に春画を忍ばせていた。実情をいえば、為政者は禁制の触れを出したものの、いたちごっこに終始し打つ手がなかった。

 こんな背景があるからこそ、師宣、政信、祐信、春信、清長、北斎……一流の浮世絵師はこぞって春画を描いている。蔦重ゆかりの重政、春章、政演、政美だって例に漏れない。

 当然のごとく歌麿は春画を手掛け、ここでも超一流の評価を得ている。

 林美一『艶本研究 歌麿』(有光書房)によれば、歌麿の春画初作は天明3(1783)年の『仇心香の浮粋』だが板元はわかっていない。林の研究によれば「これより5年間、艶本の作なし」となる。

 歌麿の春画第2作は天明8年刊行とされる大判12枚揃えの大作錦絵『歌満(うたま)くら』、蔦重が板元だった。

 本作は蔦重―歌麿が制作した春画の最高峰というだけでなく、春画の代表作と高く評価されている。天明8年といえば『画本虫撰』の刊行と同時期。蔦重は歌麿に写真の技を極めるようリクエストし、それが確かな画力として開花した時だ。