三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第24回は「東大に受かる人の共通点」について考える。
東大生は皆「負けと挫折」を味わっている
東大合格請負人・桜木建二の前に一人の生徒が現れる。彼の名前は藤井遼、桜木率いる東大専科とは別のコースから東大合格を狙う生徒だ。
東大専科を「あんなとこ」とバカにする藤井に、桜木は衝撃の一言を発する。「自分が人より上だなどと思い上がった考えを持つヤツは、百回受けても東大には合格しない」
東京大学に入学して以来、「自分は頭が良い」と公言する人を私は見たことがない。これは私にとってやや意外だった。
もちろんそれは東大の内部だから、ということもあるだろう。世間に出たら、東大卒だということだけを鼻にかけている人がいないとも限らない。
だが個人的な感触では、少なくとも東大の中において東大生は総じて謙虚だ。それは、どこかで必ず「自分より上の存在」に出会っているからだと思う。
例えば中学受験、地元では神童ともてはやされた子供でさえ、都心の進学校では落ちこぼれになりうる。中学や高校でトップだったとしても、他校の生徒も参加する模試などで、自分より遥かに上の存在を知る。
そして大学受験後、今までは雲の上のように思えた模試の成績上位の人たちが、実際には自分とそんなに変わらない一人の人間であることを知る。
実力が無慈悲に数値化される勉強という分野で、「どれだけ努力しても、敵わない相手がいる」と思い知らされるのが受験というものだ。だから、私の周りにいる友人はみな、自分の立ち位置をとてもシビアにみているような気がする。
「自分はこんなにできるんだ。だからもっと頑張ろう」よりも、「自分はこんなにもできない。もっと頑張らなくちゃ」や「自分はこんなにもできない。だから諦めよう」の方が多い印象を受ける。
テスト前に友人たちは口を揃えて、「全然勉強していない」という。
もちろん本当に勉強していない人もいる。だが多くの場合、それは言外には「もちろん必要最低限の勉強はしたが、必死に勉強しているであろう人と比べたら私の勉強など勉強のうちに入らない」というような意味を含んでいる。
「安定を目指した安定」と「チャレンジした末の安定」は違う
「私の立ち位置はここである」というのを、極めて現実的に把握しているからこそ、東大生の間で生まれがちなのが安定志向だ。
もちろん果敢なチャレンジャーもいないわけではない。しかしそれは得てして少数派だ。一部のチャレンジャーがフォーカスされればされるほど、逆にその特殊性を浮き彫りにする。
もちろん、安定志向がダメだとは全く思わない。全員が安定志向を捨てたら、この社会は崩壊するだろう。社会に出ていないからこそ言えることではあるが、「安定を目指した安定」と「チャレンジした末の安定」では天と地ほどの差がある。
だからこそ、「他人にはないガクチカ(学生時代に力を入れたことの略称)を」との謳い文句で同じようなセミナーやアクティビティにいざなうような風潮には少々違和感を感じる。
理想を言えば、もう少し夢想家がいてもいいような気がする。自分の実力を勘違いし、しかしそこに向けてもがく人がいてほしい。
陸上部の後輩で、地区大会にも入賞できないにもかかわらず「俺来年インターハイで優勝しますから」と大真面目で言っている人がいた。
言霊とでも言うのだろうか、彼は翌年インターハイとは言わないまでも、関東大会での入賞を果たした。ビックマウスも行動が伴うのであればバカにはできない。
100人が現実的な夢を抱くより、10人が到底実現不可能な夢を描き、そこに向けてもがいている方が面白い。
お前はどうなんだと言われた時に、後者であると胸を張って言えるようにしていきたいとは思っている。