南北戦争後の中国移民が
辿った悲惨な歴史

 ここでおそらく、次のように歴史を概観しておくことが必要かもしれない。南北戦争のあと、中国人がどのように奴隷のかわりの苦力(クーリー)としてプランテーション農園で働かされたか、あるいは大陸横断鉄道の敷設のため、彼らがどのようにしてダイナマイトをドリルで掘った穴に埋め込んで線路を敷いたか。その作業で、中国人たちはしばしばダイナマイトで吹き飛ばされたり、暴風雪で雪に埋まってしまったのだ。

 明白なる使命(マニフェスト・デスティニー)を現実のものとするための鉄路を建設するなかで、1マイルあたりで中国人労働者が3人ずつ命を落としたが、プロモントリーサミットで黄金の犬釘(ゴールデン・スパイク)の記念写真が撮影されたとき、中国人の労働者は1人として白人の鉄道労働者と並んで写真に収まることはなかった。

 もっとも、告白しなければならないが、私は19世紀のアメリカの中国人の歴史を自分のものとしてとらえるのに苦労している。その時代に私の先祖はまだ韓国にいたからだ。そこで先祖が何をしていたのかは、記録が失われてしまったためわからないけれど。私自身はこうした中国人たちに外見は似ていると思うけど、古い写真を見る際にはどうしても白人の入植者たちが彼らを見たに違いない眺め方になってしまう。

 詰め物入りのパジャマを着て気色の悪い長い辮髪をたらした彼らはとても奇妙に見える――まるで西部劇の写真に合成で入れられた宇宙人のようだ。白人入植者の眺め方になってしまうのは、彼らがどうやって生きていたのかという1次資料がごくわずかしか残されていないためと思える。たとえば彼らの賄い付き下宿や激しい疲労困憊、ホームシック――そういった事実の大半が記録に留められぬまま失われてしまった。

 最初にアメリカに来た中国人女性は、さらに過酷な扱いを受けた。誘拐され、この荒々しい野蛮な国に密輸された15歳の少女の立場など私には推し測ることさえできない。あいまい宿に監禁され1日に10度もレイプされた彼女の身体は梅毒でボロボロになっていった。そうなってしまうと、彼女は外に放り出され、たった独りで死んでいった。

反中国人運動のさなかに
アメリカで生きる恐怖

 哲学者のジョルジュ・アガンベンはこう記している。剥き出しの生、すなわちホモ・サケルは、社会の保護のもとにある生とは反してたんなる生物学的な生である、と。ホモ・サケルは「他者が殺人罪に問われることなくその人間を殺すことができるという事実のために、すべての権利を剥奪」されていて「絶え間のない逃走のなかでようやく生きながらえることができる」存在だ。

 私は、まるで植物か豚のように、ただの生物学的な事実に貶められた身体というものを考えることができない。もし売春婦が誰にも看取られないで死んだとしたら、彼女はいったいこの世に存在したのだろうか?