仮にタイムマシンがあったとしても、この国では時代をさかのぼることができるのは白人に限られるだろう。白人以外の大半は、奴隷とされるか、殺されるか、不具にされるか、あるいは狂暴な子どもたちに追いかけまわされていることだろう。だが、私は1日でも良いからタイムマシンに乗ってみたい。

 18世紀の半ば以降に始まった反中国人運動のなかで生きる恐怖を見てみたいからだ。そこでは中国人の移民が家から出歩くと、唾を吐きかけられたり、こん棒で殴られたり、背中を撃たれたりするのだ。

 反中国人運動は1882年の中国人排斥法で頂点に達したが、その移民法は特定の人種がアメリカ合衆国に入るのを禁じた最初のものであって、議員やメディアが中国人を「ネズミ」「ハンセン病患者」と決めつけるのと同時に、善良な白人から仕事を盗む「機械のような」労働者たちと位置づけるようになってから制定された。

 アメリカ合衆国に残った人びとは、民族浄化に格好の動く標的とされた。自警団員たちが彼らの商売に爆弾をしかけ、テント越しに撃ち、家屋から燻りだそうとした。西海岸沿いでは、何千人もの中国人移民が彼らの町から追い出された。

 1885年、ワシントン州のタコマでは妊娠している女性の家に白人たちが乱入し、彼女の髪をつかんで家から引きずり出すと、町に住む300人の中国人移民とともに行進させた。その行進は夜の闇の中に進み、冷たい雨の降りしきるなか、荒野へと向かったが、そのあいだに彼らの家は、暮らしていた痕跡もろとも彼らの背後で燃やされてしまった。

 行き場をなくした彼らは、「絶え間のない逃走」を続けるしかなかった。1871年には、中国人数名が白人の警官を殺したという噂を聞きつけたおよそ500名のロサンゼルス市民が、市のチャイナタウンに入りこんでいった。彼らは18名の中国人男性や少年を拷問し、首を吊した。これはアメリカ史上で最大の集団リンチだった。彼らがリンチされた通りは、当時「黒んぼ(ロス・ネグロス)通り」と呼ばれていた。

モデルマイノリティの地位は
現在どのように変化したのか

 1917年、アメリカ政府は中国人への移民禁止令をアジア全体に拡大した。フィリピンはその頃はアメリカの植民地であったにもかかわらず、フィリピン人までも入国を制限した。基本的に、その移民禁止令は世界的規模での人種隔離政策だった。

 1965年、アメリカは「劣った人種」をふたたび歓迎するようになったが、それは彼らがソヴィエト連邦とのイデオロギー上のつまらぬ競争に陥っていたせいだった。