もちろん、ストのために放送が止まれば、国から電波を預かる立場のフジとしては重大問題ですから、日枝氏退陣の流れは起きるかもしれません。しかし、制作会社に番組を作らせて放送が途切れなく行われるようにしたり、過去の番組の再放送をして空白の時間帯を埋めたりすることはできます。その間に、組合幹部の苛烈な左遷人事が実行されれば、組合は総崩れとなる可能性も否定できません。

フジテレビのクーデターで垣間見た
日枝氏の動きと影響力

 さて、過去を振り返ると、30年前にフジテレビで起きたクーデターは、鹿内信隆氏の死去に伴う巨額の退職金疑惑からスタートしました。1992年4月3日、当時文春にいた私は、親しい出版人を通じて、鹿内信隆氏に支払われる退職金が合計13社から17億円以上、弔慰金が7780万円と巨額のぼるというリストを入手しました。

 もちろん、この段階では裏付けはありません。当時のフジテレビは、鹿内信隆氏の跡を息子の春雄氏が継ぎ、「面白くなければテレビじゃない」をスローガンに、日枝氏と共に圧倒的な視聴率を稼いでいた時期でした。

 その春雄氏が急死して、娘婿の宏明氏が日本興業銀行を辞めて鹿内家を継いだところから、騒動は始まりました。当時、それこそハチャメチャな番組を作っては全盛期を築いてきたフジテレビに、宏明氏は銀行出身者らしいコストカットを始めました。

 警視庁回りにハイヤーを禁止したり、取材費用などのカットを求めたり、全盛期のフジサンケイグループの現場の士気が完全に落ちてしまうような経営を始めたのです。日枝氏は春雄氏と共に「フジ全盛期」を作った人ですから、面白くなかったはずです。

 ただし、彼は用心深く行動しました。当時私が週刊誌のデスクとして怪文書の取材を始め、記事の書き手である島田真氏(現文春取締役)と一緒にキーパーソンとなる重要人物たちに取材すると、そのリストは完璧に本物であることが約1カ月で判明しました。そこから『週刊文春』のキャンペーンが始まります。

 しかしその間、関係者からは日枝氏の名前は一度も出ませんでした。ニュースソースであるフジ幹部が、経理事情に詳しい社員に引き合わせてくれ、絶対確信できる資料を見せてもらうというのが取材の内実でした。そのころ宏明氏は、自分の手足になる部下をフジの重要な会社の幹部に付け始めました。

 まずは、フジサンケイグループの中心になるニッポン放送(フジテレビの株はニッポン放送が握る形で、鹿内家のフジ支配は成立していました)の社長だった羽佐間重彰氏を、定年まであと1年にもかかわらず経験のない産経新聞の社長に、代わりに腹心の川内通康氏をニッポン放送の社長にし、フジテレビでも日枝氏の腹心である2人の幹部を明らかに左遷という形で更迭しました。

 さすがに、視聴率全盛のフジの立役者だった日枝氏は更迭しなかったものの、日枝氏側から見れば、功労者が次々追放された織田信長政権末期の明智光秀のような心境だったと思われます。大先輩であり、功労者でもある羽佐間氏の処遇を見て、自分が崖っぷちに立たされていると考えても不思議はありません。