田沼が失脚したことで誰が得をしたのかを考えると、まずいの一番に名前が挙がるのは、松平定信でしょう。

 ところが、どうもそうじゃないらしいんです。

 意次と組んで意次を持ち上げてから、クルッと手のひらを返してクビにして、次に引き上げて老中首座にした定信を、6年後の1793(寛政5)年、これまた用済みにした人物が、実はいたんですね。

将軍になれなかった家基
14歳の家斉を推した黒幕は?

 怖いですねえ。誰なんでしょう?……老中に指図できる、老中より偉い人といったら将軍とか将軍家でしょうか。

 でも、10代家治は意次と一心同体、意次イチオシの側室・知保の方――高梨臨さん。旦那さんは元浦和レッズの槙野智章さんですね――との間に家基――奥智哉さん――が生まれていますからね。11代家斉にいたっては、家治が死んでから将軍の座に就いたとき、わずか14歳。意次をどうこうする以前の問題です。

 ん?と思われた方、スルドイですねえ。はい、家基はなんで11代将軍にならなかったのか?……実は家基は、名前に「家」の字をいただきながら将軍になれなかった唯一のお世継ぎなんですよ。なぜなら1779(安永8)年、18歳で死んだから。「家」がつかない将軍は4人もいますけどね(2代秀忠、5代綱吉、8代吉宗、15代慶喜)。

 なんだ、それだけかよ……とがっかりされたら、やっぱりスルドくないかもしれません。

 実は、家基がなぜ死んだのかがハッキリわからないんです。残ってる記録もまちまちだったり、また聞きの話を書いただけだったり、死んだ原因についても内容がバラバラ。病気なのか、ケガなのかすらハッキリしないんですよ。

 ここまで来れば、家基じゃなくて14歳の家斉のほうを将軍にしたかった人は誰だ?という謎が浮かんできます。