「私もつい一緒に南無妙…」
19歳だった女性の生々しい証言
実はここ数年、国立国会図書館のデジタル送信サービス「国会図書館デジタルコレクション」の収録範囲が拡大し、全文検索が可能になるなど、文献調査の環境が大きく変化した。そこで改めて文献をしらみつぶしに調査すると、新たな証言を多数、発見することができ、石川さんの体験した「10日未明の地下鉄」の姿が浮かび上がってきた。
空襲当夜に浅草駅へ避難したという証言が複数登場するのは、創価学会の関連企業、第三文明社が1976年に発行した『戦禍の浅草 娘達が記録する東京大空襲 (戦争を知らない世代へ 24 東京編)』だ。
まずは雷門付近で旅館を営む家に生まれた早見淑江(当時19歳)さんの証言だ。北、西、南の三方向から自宅に炎が押し寄せる中、早見さんは自宅から東にある松屋デパートに向かった。やや長くなるが、生々しく、克明な記録なのでできるだけ引用したい。
「私は仕方がないので松屋に逃げて行きましたが、松屋のところでストップしてしまったのです。今の東武電車の切符を売っているところで待避したわけなのですが、すると警防団や兵隊が消火に当たれといいます」
「私は、どうしようかな荷物はいっぱい持っているし、困ったなと思っていたら、『若い者は外へ出て消さなきゃいけない』と言うのです。20歳(数え)の私は確かに若い者には違いないんですけど、でもそんなことしていたら焼け死んじゃわないかしらととどまっていたら、次第に押されて地下鉄の入り口まで来てしまいました」
「そしたら後ろでだれかがドンドコ、ドンドコ太鼓を叩いて『南無妙法蓮華経』とやっています。『あっ、このお坊さんは自分が助かりたいので南無妙法蓮華経をやっているんだな』と、私もつい一緒に南無妙…と言ってました。やがて地下鉄の中に入れてくれて、私も題目を唱えながらわれさきにずっと下へ入っていったのですが、私を最後に、私のすぐ後ろの人は入れませんでした。そのところで入口のシャッターが閉められてしまいましたから、中へ入れなかったそのお坊さんはおそらく助からなかったと思います」