東大の教授へ予備選考を依頼
本試験は3日間ぶっとおし

 次いで、採用される側であるが、1914年に東京大学を卒業した三村起一(編集部注/住友鉱業初代社長)は入社試験の「試験場は日本橋の高島という旅館の一室、住友総理事鈴木馬左也、理事久保無二雄、住友銀行東京支店長の加納友之介氏らが試験官だった。(東京大学の)矢作(栄蔵)、小野塚(喜平次)両先生が下ふるいにかけて百五十人が応募し、あとからの追加二名を加えて十一人しか採らなかったから、かなりの難関だった。

 朝の八時から夜の七時ごろまでぶっとおしで三日もかかった。長いのは二、三十分もはいったっきりで、冷や汗をかいて出てくる。『君は吉原(遊郭)へ行ったことがあるかね』などと図星を指されて難問を浴びせられるらしい」(『私の履歴書 経済人6』)と述懐している。

 同じく1914年の東京大学政治科卒で、のちに住友本社常務理事となる北沢敬二郎(1889~1970)によれば、「いよいよ就職というわけであるが、前年(1913年)の十一月、私は法科の矢作栄蔵先生から、住友を希望するよう強くすすめられていた。時の住友総理事鈴木馬左也氏が、事業は人にあるとして、人材発掘にたいへんな熱意をもたれ、東大法科の金井延、小野塚喜平次、矢作栄蔵の三教授に住友希望者の予備選考を依頼されていたからであった。(中略)

 そのとき住友入社を希望した学生は七十人にのぼり、私たちは東京・日本橋区呉服町の島屋旅館で鈴木総理事、久保無二雄理事の面接試験を受けた。一人一人室に通され、私も何番目かに呼び入れられた」(『私の履歴書 経済人9』)という。

飛び交う面接官からの質問
「酒はどこでどんな飲み方をしているか」

 少し時代が降って1933年東京大学経済学部卒の伊部恭之助(編集部注/住友銀行元頭取)(1908~2001)によれば、「東大で住友を希望する学生は、法学部なら穂積重遠法学部長、経済学部は矢作栄蔵経済学部長の推薦がないと、受け付けてくれなかった。(中略)

 矢作先生の推薦で、ようやくこぎ着けた住友合資の面接は、部長クラス面接と、住友総理事の小倉正恒さんをはじめとする住友各社の社長による最終面接とに分かれていた。小倉さんは戦時中、近衛内閣で大蔵大臣になった逸材だ。