
現在では少なくなったものの、かつて「学閥」による企業の採用は少なからずあった。大学における学閥は強固で、特に慶応義塾大学の同窓会組織である「三田会」は有名だ。三田会と三菱財閥のつながりも強固であるが、その礎を築いた人物がいる。三菱と慶応の歴史を紐解く。※本稿は、菊地浩之『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』(角川新書)の一部を抜粋・編集したものです。
新卒定期採用がなかった時代
福沢諭吉が卒業生を紹介
1881年7月に創設された明治生命保険(現・明治安田生命保険)は、三菱系でかつ慶応閥の会社として知られていた。三菱会社管事・荘田平五郎が元慶応義塾塾頭で、他にも慶応義塾OBが少なからずいたことから、三菱財閥の宴会に慶応義塾OBが流れ込み、その席で荘田らが生命保険会社の話で盛り上がり、設立に至ったという。
この逸話が示す通り、1880年頃の三菱財閥の学卒者には慶応義塾OBが多かった。日本郵船社長となる近藤廉平・吉川泰二郎、三菱合資管事となる荘田平五郎・豊川良平、のちに三井合名に移籍した朝吹英二が慶応義塾出身である。
この時期、三菱―というか日本企業―はまだ新卒の定期採用を行っていなかった。企業側と学校側が互いに必要な人材を探り合って就職を斡旋していたのだが、三菱と慶応義塾は相性が良かった。
「慶応では、福沢諭吉が多くの卒業生を近代企業に紹介・推薦していた。(中略)また、小泉信吉と小幡篤次郎の両塾長も積極的に就職の紹介・斡旋を行っていたことを確認できる」(『大学の社会経済史』)。
そして、その福沢が三菱のことを極めて好意的にとらえていたのだ。
「或る時福沢論吉が日本橋南茅場町の三菱事務所に立寄ると、店の正面に大きな『おかめ』の面が掛けてある。社員は前垂れ掛で働いてゐる。見た所、和船の廻船問屋と少しも変りがない。政府が保護してゐる日本国郵便汽船会社の官員風とは大違ひである。
すつかり感心した福沢は塾生の豊川良平に『岩崎氏は噂に聞いたとは全く違ひ、山師ではない。今日の様子では成功は疑ひない。殊に店の前に「おかめ」の面を掲げ、店内に愛敬を重んじさせてゐるのは、近頃の社長にはできぬことだ』と大いに褒めてゐる」(『岩崎弥太郎伝 下』)と語ったという。そのため、三菱には優秀な人材を推薦したのだろう。