
日本を代表する三井財閥において、かつて苛烈な学閥が存在した。その地位を独占していたのは、慶応義塾と青山学院で、東大卒の社員ですら出世を諦めたほどだ。三井における慶応、青学の学閥について紹介しよう。※本稿は、菊地浩之『財閥と学閥 三菱・三井・住友・安田、エリートの系図』(角川新書)の一部を抜粋・編集したものです。
井上馨の推薦で派遣された
慶応OBの中上川彦次郎
三井家は、家政部門を大元方(編集部注/三井家の資本・店舗などを共有財産として統括する組織)が束ね、事業部門は三井銀行を本社とし、三越呉服店および三井物産を関連会社とする体制を構築した。そして、大番頭の三野村利左衛門(1821~77)が大元方と銀行の重役を兼ねて、三井の経営を差配した。
1877年に利左衛門が死去すると、生え抜きの番頭・西邑乕四郎(編集部注/にしむら・とらしろう)(1830~98)が副長(副頭取)に就任したが、生真面目一本槍で銀行経営には不向きだったらしく、業績の低迷を招いた。
そこで、三井銀行の低迷を再建すべく、井上馨の推薦で1891年8月に中上川彦次郎(1854~1901)が派遣され、三井銀行理事に就任。その半年後に副長に就いた。総長(頭取)の三井高保(1850~1922)は三井一族を代表しての就任なので、副長の中上川が三井財閥の事実上のトップになった。
中上川は福沢諭吉の甥に生まれ、1871年に慶応義塾を卒業して留学。英国で外遊中の井上馨の信頼を得る。その後、井上馨が工部卿(現在の経産大臣)になると、その推挙で工部省の役人となり、井上に付き従って外務省に転じ、公信局長に就任した。
しかし、81年に「明治14年の政変」(大隈重信が早期国会開設とイギリス流政党政治の実現を密奏し、政府内部の軋轢が深まった)が起こり、福沢諭吉の関係者が職を追われ、中上川も官を辞し、時事新報社社長や山陽鉄道社長を歴任した後に三井銀行入りした。
中上川は不良債権の整理に着手し、三井の経営近代化を図った。そして、改革を推進する人材を確保するため、多くの学卒者(特に慶応義塾OBや新聞記者出身者)を中途採用し、官尊民卑の旧弊を改めるべく役人に引けをとらぬ高給で遇した。
その結果、それまで政商的だった三井の空気は一変する。三井銀行の不良債権の多くが政治家や有力者との癒着で回収不能となっていたが、中上川は学卒者出身の行員を差し向けて厳しく督促し、断固として回収した。