また、日本の近代化・工業立国に寄与すべく、三井銀行の融資で事業会社を手に入れ、学卒者を派遣して再建。工業化路線を積極的に推し進めた。しかし、中上川の工業化路線は、資産の保全を第一に考える三井家の批判を受け、晩年の中上川は孤立し、1901年に不遇のうちにこの世を去った。

三井銀行会長に
慶應OBが続く

 1909年10月、三井銀行は株式会社に改組し、専務理事・早川千吉郎と池田成彬・米山梅吉が常務取締役に選任され、早川が筆頭常務となった(非常にわかりづらいのだが、しばらくの間、三井銀行の事実上のトップは筆頭常務となる)。

 1918年1月、早川は三井銀行筆頭常務を退いて三井合名副理事長に転じ、20年6月に辞任。翌21年5月に南満洲鉄道(通称・満鉄)社長に転じた。早川の辞任により、池田成彬が筆頭常務に昇進。三井銀行のトップとなった。

 さらに、32年3月、三井合名理事長・団琢磨が暗殺されると、翌33年9月に池田は三井合名筆頭常務理事(事実上の三井財閥のトップ)に招聘された。

 池田は三井銀行筆頭常務を退任。後任に慶応義塾OBの菊本直次郎(1870~1957)を指名。さらに池田は三井合名筆頭常務理事として「財閥転向」を指揮し、直系会社トップの三井一族を退任させ、専門経営者をトップに据えた。これにより、菊本が三井銀行会長に就任。名実ともにトップとなった。

 1936年8月に菊本が退任し、同じく慶応義塾OBの今井利喜三郎(1871~1948)が会長に就任した。翌37年に慶応義塾出身で千代田生命保険を設立した門野幾之進が社長を退任し、後任社長に今井が選ばれ、三井銀行を退職した。

 今井利喜三郎の後任には、青山学院卒の万代順四郎(1883~1959)が就任した。1943年に三井銀行が第1銀行と合併して帝国銀行になると、その初代頭取となった。終戦後の46年12月に退任している。

三井財閥の青山学院閥は
米山梅吉にはじまった

 三井銀行会長・万代順四郎は財閥経営者としては珍しい青山学院OBである。1940年のデータでは三井財閥の金融機関幹部に5人の青山学院OBがいた。三井財閥における青山学院閥は、米山梅吉にはじまったと考えられる。

 米山梅吉(1868~1946)は大和高取藩士の子として江戸藩邸で生まれ、父の死後、母の実家・静岡県三島に移住して村長・米山藤三郎の養子となり、学資を得て旧制沼津中学に進学。その後、東京英和学校(現・青山学院大学)に1886年に進学した。