翌87年に渡米し、ウェスレアン大学、シラキュース大学に学んだ。95年に帰国。ペリー提督の伝記『提督彼理』を出版し、その推薦文を書いた藤田四郎(井上馨の女婿)の紹介で井上の推薦を受け、97年10月に三井銀行に入行した。

 翌1898年9月、中上川彦次郎は気鋭の若手行員3人を欧米視察に派遣したが、米山は池田成彬、丹幸馬とともに選ばれた。1899年に帰国し、1902年に大阪支店次長に着任。09年10月、三井銀行が株式会社に改組すると、早川千吉郎、池田成彬とともに常務取締役に選任された。

 銀行のトップ3の一角に食い込み、池田と並ぶ三井銀行実力者の双璧と謳うたわれた。米山は早川にかわいがられていたという。慶応OBが蟠踞する中で、慶応以外の人材として、それを抑える期待があったのではないか。

 1923年の信託法・信託業法施行にともない、翌24年に日本初の信託会社・三井信託が設立されると、米山はその初代社長に就任する。米山は銀行の常務時代「外国為替と人事方面の担当」(『米山梅吉伝』)で、三井信託の初代社長だったことから、新卒採用で多くの行員と知己を有し、国際部門・信託部門で影響力を保持していたと考えられる。

 なお、『米山梅吉伝』所収の追憶集にて、神戸豪太郎(旧制一高ー東京大学独法科卒)が、自らを青山学院中等科卒であると披瀝している。つまり、中等科卒まで拡げれば、もっと青山学院OBがいたかもしれない。

東大卒社員がこぼした一言
「とても役員になる見込みはない」

 佐藤喜一郎(1894~1974)は、1917年に東京大学英法科を卒業して三井銀行に採用され、戦後、社長(頭取)に就任した。「卒業が間近に迫って就職を決めようというとき、たまたま父の知り合いに三井銀行の人事を担当している米山梅吉さんと懇意な人がいて、三井には多くの人材が集まっているというので、私はその年の暮れ、米山さんの面接を受けた。三井銀行の採用が内定したのは翌年二月だった」(『私の履歴書 経済人8』)という。

「三井銀行は学閥とまで言えるかどうか分からないが、慶応出身者が多かったのは事実であったであろう。佐藤(喜一郎)さんは東大出身で、入行された頃、東大出身の役員はいなかった。後に小池正彪氏がなられたくらいなもの。役員はほとんど慶応出身であった。佐藤さんがボンベイ支店長の頃、親しい友人に話されたという。『俺は三井銀行にこのままいても、とても役員になる見込みはない』」(『三井銀行を築いた異色の経営者たち』)。