高速道路の高架が崩れたり、かなり高いビルが丸ごと横倒しになったり、家の近所がワンブロック全て焼け野原になったり……そんな崩壊した日常生活の向こう側から、それでも治安を保ち、必死に助け合う動きが立ち上がってくる日本社会の分厚い「義理の連鎖」の存在を体感したのです。
また、高校では、全国大会に出場した回数がその時点で最多という伝統が“売り”な音楽系の部活に入り、その中心人物になったりして、これもまた考えを変えざるえない体験となりました。
進学校とはいえ普通の公立高校なので、新入部員の特に男子は未経験どころか「楽譜も読めない」方が普通……という状態から自分たちはスタートする一方で、関西大会には、音楽科の生徒が集まって出てくるようなライバル校もいる。
「普通に考えたら勝てるわけないじゃん」的な感じなのになぜ毎年安定して勝ち、全国大会に行けてしまうのか?
「ハグレモノの個人主義者」としてしか生きてこなかった自分にはそのことが本当に不思議でした。
ほっといたら堕落する人を
共通目的に向かわせる仕組み
幼い頃から音楽の英才教育を受けた存在以外の、「“そこらへんにいる普通のお兄ちゃんお姉ちゃん”みたいな存在を、たった3年間で“イッチョマエ”に全国大会レベルで活躍できるように仕立てる」メカニズムの背後には、それまでの自分が憎悪してきた日本社会の因習にしか見えないものが重要な役割を果たしていることを知ったわけです。
具体的にいえば、ほっといても頑張れる人というのは世の中のうち一握りだけであり、ほうっておいたら果てしなく堕落しちゃう人を、無理なく1つの共通目的に向かわせるための「有形無形の仕組み」が社会には必要なのだ、ということです。
そして、バリバリの知的な個人主義者から見ると心底許せないように見える因習の中には、ほうっておいたら果てしなく堕落しちゃう人を、「イッチョマエ」の存在に無理なく押し上げる儀式的価値のようなものが組み込まれているのです。
部活でいえば、地区大会に向けて雰囲気を盛り上げるため下級生が準備するイベントのようなものが色々と組み込まれていたりする。