アメリカのように単純な合理性を徹底的に隅々まで追求するだけでは勝てないという宿命を、日本は負っているのです。
そのあたりの事情を深掘りしていきながら、日本が本当に変わっていくために何が必要なのかを考察することにします。
個人主義の「水の世界」
生命的連携の「油の世界」
私は、中学生時代の自分が奉じていたような徹底した個人主義・狭義の合理性重視の姿勢を「水の世界」と呼び、そして私が高校時代に参加していた部活の謎の強さや、阪神・淡路大震災の次の日には生まれていた、多くの人たちの自発的な連鎖、少しずつ傷を塞いでいくような生命的連携を生み出す基盤の部分を「油の世界」と呼んでいます。
「水の世界」では、水の最小の粒子(分子のことなのか原子のことなのかさらに小さい単位のことなのか……などと物理学的に厳密に考え始めるとキリがないのでそこは考えすぎないようにしてください)は、常にその瞬間その瞬間に最適と思える場所に移動するので、隣同士でべったりくっつきあって自分の行動が制限されたりはしません。
一方で「油の世界」では、もっと粒子同士の関係性が密であり、1ヵ所にへばりついて自分たち特有の世界を形成します。
「水の世界」で生きていた中学生時代の私は、日本社会の「油の世界」的な要素を心底憎悪していましたし、逆にあなたが「油の世界」の住人であるなら、これまでの人生で、水の世界」の住人の行動様式を苦々しく思ったことがあるはずです。
あなたは水と油、どちらの性質を強く持っている人でしょうか?
「水と油」は混ざらないものの代表としてコトワザになっているぐらいですから、ほうっておくと仲が悪くなりがちですし、
〈敵側を排除し、自分たちの側の論理だけで世界を塗りつぶしてしまいたい!〉
……という欲求を持ってしまいますよね。
日本が改革を叫び続けながら
どこにも進めなかった理由
そして、「油の世界」の論理だけを追求すると、人々の連帯感や社会の安定性が生まれる長所はありますが、一方で個人に対する抑圧が強くなりがちですし、千変万化する情勢に鋭敏にやり方を変えて立ち向かったり、最新の技術や学識を柔軟に取り入れたりすることが苦手になりがちです。