その苦労があまりに過大なら負担軽減するべき……なのですが、いざそういう苦労がゼロになると、人間はダラダラした日常の延長では、「大会」という勝負事に向かうメンタルを高めていくことができないのです。
結果として、伝統の力が息づいていた昔なら考えられなかったようなミスが頻発して冷や汗をかいたりすることになる。
色々な深い配慮が組み込まれた因習は、ものすごくやる気に溢れた自律的な個人以外も「イッチョマエ」に活躍できるようにする深遠なパワーを持っているんですね。
とはいえ、そういうことがちゃんとわかったのは卒業後だいぶんたってからでした。
狭義の合理主義者の改革が
集団が持つ本来の強みを崩す
実は、私は自分が3年生になって実権を握ったところで、因習に見えたありとあらゆるものを全部廃止していったのですが、そうするとその後嘘みたいにその部活が弱体化してしまい、かなりの長期間にわたって「誰も知らない無名の高校」になってしまうという体験をしたのです。
逆に、最近はまたその母校の部活は安定して全国大会に出られるようになってきて、シーズンが来るたびに同窓会LINEグループが大騒ぎになるのですが、それはOGにあたる卒業生の女性が赴任して顧問になり、強い思いを持って取り組んでくれたからでした。
個人主義者で(狭義の)合理主義者みたいな存在からすると、憎らしくてたまらない“何か”によって支えられている共通善のようなものがあるのだ、と痛感せざるをえない体験をしたわけですね。
この「狭義の合理主義者がよかれと思ってやること」が、その集団が持つ本来的な強みを掘り崩していってしまうようなことは、私が外資系コンサルティング会社に入ってからする仕事の中でも、全く同じトーンで全く同じ過ちをしているようで、ヒヤヒヤさせられる課題となりました。
最善を目指して徹底的に考え、間違いない作戦を実行しようとしているはずなのに、砂を掴んだ手のひらから砂がサラサラとこぼれ落ちてしまうように大事な“何か”を取りこぼしているような感覚。
日本で働いていると、そういう謎の焦りを感じたことはありませんか?
その根本的なすれ違いをいかに克服していくかを考えないと、押しあいへしあいになってしまい、どこにも進めなくなります。