都会ではただ街を歩くだけでも
アグレッシブになる
競争意識は都会の方が育つ。これはなぜかわからない。
田舎に移住して2、3年たった頃免許の更新があって、その写真を見て自分の目尻がものすごく下がっているのに驚いた。誇らしかったあの鋭き眼光(※自己評価)はすっかりなりを潜めて、すっかり「田舎のおじさん」然としていたのであった。
田舎は高齢者が多くてほんわかしていて、40代の筆者は誰かと競うような気持ちをほぼ持たなかった。しかしそんな筆者でも都会に戻ってくるたびに、途端に眼光が鋭さを取り戻すのを自覚した(※自己評価)。
都会は若い人がたくさんいるし、みんなきちっとして外を歩いているし、「負けないぞ」という気持ちを持って発散させているからだろうか、こちらも闘争心というか、敵愾心というか、とにかくアグレッシブな気持ちになってくる。身を研ぎたいならおそらく都会がよかろう。
以下はもう少し本質的な話である。
これは、もう今さら指摘するまでもないことだが、都会と田舎の関係性は大きく変容してきている。昔は都会でしかできなかったことが、今は田舎で大半が実現可能である。
ネットのインタラクティブなやり取りは距離を超越するし、自宅から30分か1時間、あるいは2時間かければショッピングモールなどの商業施設があって、そこでは流行りのもの・一般的なものが提供されている。
整えられた「普通」はどこに住もうと全国おしなべて平均的であり、逸脱を望まなければそこから幸せを充分に感じることができる。また、そうした生き方は大志を抱くことが以前よりはもてはやされなくなった現代によく即しているともいえる。実際に、私は田舎に暮らして抑えた生活コストで通り一遍の「普通然とした生活」を享受し、ある程度幸せを謳歌した。
都会の賃金の高さが放つ魅力も、今や都会の生活コストの高さがすっかり消してしまった。すると都会の価値は、「それでもやっぱり都会でしかできないこと」に託される。それは刺激的な日々であったり、自分にとって適切と思える競争であったり、都会の働き口であったりするのだが、人間という動物はこれらを欲する気持ちを齢を重ねるごとに薄れさせていくものなのである。