あくまで想像ではあるけれど、1つの考察としてはどうだろうか。
現実の歴史と照らし合わせれば、手塚治虫やトキワ荘に集まった漫画家たちの影響はもちろん無視できないものだ。もしも仮に、手塚治虫やトキワ荘が存在しなかったら、日本の「役に立たないロボット」は異なる展開になったかもしれない。
とは言え、ここで述べた考察は決して、現実の歴史と矛盾するものではないはずだ。むしろ、日本にここで挙げたような条件が揃っていたことを踏まえると、この国で「役に立たないロボット」たちが描かれてきたのは、「日本人がロボットが好きだから」というよりも、「作家にとってロボットという存在が有用で便利だったから」であり、一種の「必然性」があったようにも感じられる。
「役に立たないロボット」の
今後のために必要なことは……
一方で、今後の「役に立たないロボット」の可能性を考えるためには、日本の特異性にはあまりこだわりすぎないほうがよさそうだ。
まず、現代社会は情報の多チャンネル化や娯楽の多様化が進み、社会においても価値観の多様性が認められ、個々人が興味があるものの情報を集めたり、好きなものを購入したりしやすい社会になってきている。
ライフスタイルも文化も商品も、個々人が「良い」「好きだ」と思ったものは自国のものであるか否かにかかわらず、容易に取り入れることができるのだ。
ロボットもその例外ではないから、国や地域で一括りにして「日本人は友だちのようなロボットが好きで、欧米人は機能に優れたロボットや強いヒーローのロボットが好きだ」と考えるよりも、「日本人にも、機能に優れたロボットや強いロボットを求める人はいるし、ロボット自体を好きでない人もいる。同じように、欧米人にも友だちのようなロボットを購入したい人や、愛着を持って接する人はいる」と考えるほうが実態に近いだろう。
また、「ヘボコン」(編集部注:技術力の低い、または「ヘボい」ロボットを制作した人限定のロボット相撲大会。ダメロボットの祭典)が海外に広まっていることも、価値観や感性の差を国や地域の違いだけに求めるべきでないことの証左と言える。