またたく間の出来事だった。ヤギが処遇部長に突進し、頭突きをかましたのだ。

 バランスを崩した処遇部長は、スローモーション映像を見るようにゆっくりと、そして、かなり不格好な姿勢のまま、地面に倒れ落ちた。いわゆる、お嬢様座り、といった姿でへたり込んでいる。

 三浦は、我慢した。だか、堪えようとすればするほど、笑いが抑えられなくなる。

 ついに吹き出してしまう。その瞬間、マッハムードと目が合った。

 彼も笑っていた。初めて見せる笑顔だ。虎谷の姿を見て笑ったのか。それとも、吹き出してしまった三浦の顔を見て笑ったのか。そこは定かでない。

 駆けだしたヤギを横目に、山崎が、虎谷に言う。

「非常ベルを押しましょうか」(編集部注/刑務所では、受刑者が不測の行動に出た場合、非常ベルが押され、屈強な刑務官が大挙押し寄せる。当該受刑者は制圧され、懲罰を受けることになる)

 虎谷が立ち上がり、むくれた顔を山崎に向けた。

「馬鹿、ヤギを保護室にぶち込んで、懲罰にかけるわけにはいかんだろ」

 ヤギは、20メートルほど先で、マッハムードが捕まえていた。いつの間に移動したのか、まったく気づかぬほどの早技だ。

 マッハムードの手が伸びて、ヤギの体を撫でている。西日に照らされ、そのシルエットが、芝生の上で映える。

「これが、アフリカの草原だったらいいのにな」

 山崎が、そうぽつりとつぶやいた。

笑顔だった受刑者に異変発生!?
急にしくしく泣き出した理由は

 深瀬からの連絡を受け、三浦は、取るものもとりあえず、レッドゾーンに駆けつけた。

 2時間ほど前に、初めて笑顔を見せたマッハムードである。しかし、居室に戻って夕食を摂ったあと、急に様子がおかしくなったという。

 東5舎(編集部注/府中刑務所の収容棟の1つ。特に処遇困難な受刑者が集められており、通称「レッドゾーン」と呼ばれる。かつて小泉純一郎が現職総理として初めて府中刑務所を視察した際、レッドゾーンの受刑者が自分の排泄物を小泉に投げつける事件が発生している)の獄舎内、2人は、マッハムードの居室へと向かっていた。