深瀬が歩きながら、三浦に話す。

「なんだか、しくしく泣きだしちゃって。こんなことって、これまで一度もなかったんですけどね。還室の前に、なんかあったんですか」

 三浦は、歩くスピードを落とすことなく、真っすぐ前を見て答える。

「ヤギと30分ぐらい一緒にいました。水をあげたりもしてたんですがね。たぶんですけど、そんなふうにヤギと触れ合ったことで、マッハムードは今、郷愁に駆られてるんじゃないでしょうか」

「きょうしゅう?あっ、そうか、里心がついたってことですね」

 返事はしなかったが、三浦は、そうに違いないと思っている。

 マッハムードにとってここは、生まれ育ったところから遠く離れた異国の地だ。おそらく彼は、日本という国の存在すら知らなかったのではないか。そんな訳の分からぬ国に、成人したばかりの頃に連れてこられ、それから牢獄の中で、もう7年近く拘禁され続けているのだ。

 ただでさえ辛いのに、母国のことを思えば、もっと辛くなるだろう。だから彼はこれまで、自分の故郷については、極力、思い出さないようにしていたのではないか。ところが、きょうヤギと接したことによって、母国ソマリアの風景を思い浮かべてしまった……。そして、当然のごとく里心がつき、その寂しさから、涙することになった、と、そんな状況なのではないか……。

初めて聞く彼の声は
まるで子供のようだった

「ちょっと、ここで止まりましょう」

 深瀬のその言葉に従い、三浦も足を止めた。

 ここは、マッハムードの姿が、斜め後ろから見える位置だ。居室内の彼は、いつものように、片膝を立てて座っていた。

 あちこちの部屋から、騒がしい声がする。だが、そんななかでも、はっきりと三浦の耳に聞こえてくる。口笛でもなく、鼻歌でもない。それは、ハミングというものだろう。マッハムードが、何かの曲をハミングしているようだ。三浦は、耳を澄まして聴いてみる。

 オペラの「アイーダ」によく似た曲調だ。サッカー日本代表の応援チャントに使われているあの曲だが……、いや、もっと哀愁漂うメロディーであるようにも思う。