領域国家の中でゾーニングして、意見が合うもの同士で分かれて暮らせばいい
橘 その問題に関連して、実現性はあまりないと思いますが、最近すごく面白いと思ったのが、インド系アメリカ人の起業家でイデオローグでもあるバーラジ・スリニヴァサンの「ネットワーク国家」構想です。これはよくあるオンラインコミュニティではなく、クラウドファンディングによって世界中の土地を購入し、それをネットワークでつなげて、国際社会から主権を承認される国家をつくろうと呼びかけている。
アメリカはいまや、共和党支持者と民主党支持者でまったく意見が合わないばかりか、互いに憎み合うようになってしまった。リベラルはトランプがやることなすことすべて気に入らないので、なぜアメリカ人だという理由で、こんな大統領のいる国に我慢しなければならないのかと思っている。
逆に保守派のひとたち、とりわけラストベルトと呼ばれる寂れた地域に吹きだまる白人労働者階級は、民主党を支持するリベラルなエリートが「ディープステイト」をつくって社会を自分たちの都合のいいように歪めていると思っている。それでもお互いが一緒に暮らさなければならないのは、アメリカという領域国家にたまたま生まれて「アメリカ人」になったから。でもそれは、どちらにとってもカンファタブルじゃないわけです。
豊かな大衆消費社会は、「なんでもあなたの好きなものを選べます」という社会ですよね。ご飯を食べに行っても、着るものでも、すべて好きなものを選ぶことができる。だったらなぜ、自分が暮らす国をもっと簡単に選べるようにならないのか、というのはごく自然な発想だと思います。こうして領域国家自体が液状化して、「トランプが好きなら“トランプランド”の国民になってください」「あなたの地域はリベラルだからカナダと一緒になったほうがいい」と、領域国家の中でゾーニングされていく未来は案外、現実的なんじゃないかと思います。
アイデンティティ政治では、異なるアイデンティティを持つ人たちの価値観が衝突して収拾がつかなくなる。お互いに自分が正義で、相手が悪だと思ってるわけだから、際限なく罵詈雑言を浴びせ合うか、さもなければ殺し合うしかない。そんなことになるくらいなら、「あなたはこういう世界に住みたいんだから、そこに住めばいいし、私はこういう世界に住みたいんだから、こっちの世界に住みます」というゾーニングされたネットワーク国家はかなり魅力的です。
こうした社会の分断がもっとも深刻なのはアメリカだから、日本が先行するということはないと思いますが、先ほど話した通り価値観の変化は欧米から広がっていくから、これからどんな変化が起きるのかとても興味深いです。
山田 いやー、僕にはまだ、そんな社会を想像すらできませんが。
表現の自由はカンファタブルなものを完全に失う話
山田 僕はその文脈でいくとすごく感じているのは、ちょっと逆説的で、大胆かもしれませんけど、表現の自由ってね、すごい罪なんですよ。どういうことかというと、表現の自由ってカンファタブルなものを完全に失う話。
というのは、今もう政治家として辛いのは……辛いというか、まあこれは仕事だからという意識でやってますけど、表現の自由と子ども政策ってすごく相性が悪いんです。子どもを守るのであれば、表現の自由を失ったら案外守れる。子どもに見せちゃいけない、こういうものは触らせちゃいけない、接しちゃいけない、言っちゃいけないなどと。
それから、いじめとか誹謗中傷とか、そういったものと表現の自由ってものすごく相性が悪いわけです。こういうものは言ってはいけないってなれば、きっと誹謗中傷もなくなるし、こういうことはやっちゃいけないって決めれば、いじめもなくなっちゃうと思うんですよね。
あとは二次創作っていうのも、すごく表現の自由と相性が悪いんです。マネして自由に描いたら、これは権利侵害だって決めちゃうとか。つまり、究極のカンファタブルと表現の自由ってものすごくぶつかる話で、管理され、何かを大きく表現の自由として失ったら、案外、楽で楽しいかもしれない。
橘 「幸福な超監視社会」ですね。
山田 超監視社会って意外と犯罪はありません。それから誰かがいじめられるわけではないかもしれない。だけど、人って不思議と超監視社会はイヤでしょ。
橘 そうなんですよね。
山田 さっきの橘さんの話に出てきましたが、法を犯しても、確信犯的にいわゆるわいせつなことをやりたい人たちがいるわけですよね。人の特性なのか、最後の砦なのか、僕はよくわからないんですけど、表現の自由というのは、ものすごくアンカンファタブルな話なんだけど、人として何か根源的に持っているものというか…。
橘 安全というものが社会の一番の根幹にあると思うんですよね。街を歩いていたら、いきなり誰かに殴られたり、襲われたりするようなところでは、誰も生きてはいけませんから。だから、安全や秩序を求める強い本能が一方にある。そしてもう一方に、もっと自由に生きたいという本能がある。
中国で共産党の一党独裁がある程度、支持されているのは、もともと秩序がないカオスみたいなところに安心して暮らせる社会をつくってきたからですよね。QRコードのキャッシュレス化がものすごい勢いで広まったのも、偽札が大量に出回っていて、受け取ったお金が本物かどうかわからなかったから。
中国の人口は14億人ですが、わたしたちは直観的にはその規模を理解できない。中国社会の根本には「人が多すぎる」ということがあるので、誰にだまされるかわからず、他者を信用するのが難しい。でもこれだと不安だから、一定の監視の中で安心して暮らせるほうがいいと思うのも理解できます。
山田 だから、監視され、管理される世界はすごくカンファタブルで。表現の自由をはじめとした自由を代償として、それが成立するのかな。
橘 極端なリバタリアン(個人の自由を至上の価値とする政治思想)だと、求めているのは西部開拓時代のような、弱肉強食の世界ですからね。自分の銃一丁で、悪党を撃ち殺していく。それができなかったら死ぬだけ。でも今は、そんな世界では誰も生きていけないでしょう。
山田 アメリカって元々そうなんですよね。銃に対する考え方とか、女性でも若い者でも銃1丁持っていることが平等だと。
橘 そういう意味では、リバタリアンの世界を理想とするアメリカと、共産党による超監視社会の中国は、それぞれが特殊な社会、特殊な国の作り方の両極端ですよね。でもほとんどの人はそのどちらもイヤだから、その間の中途半端なところでなんとかやってくしかない。
ネットではあらゆることで「お前はどちらの立場なのか?」を問われるじゃないですか。私は『DD論 「解決できない問題」には理由がある』(集英社)という本で、DDつまり「どっちもどっち」でやっていくしかないと書いたんですけど、こういうのはすごく嫌われるんです。だけど、簡単に善悪を決められるんなら、誰も苦労しないですよね。結局、「解決できるような問題は、もうすべて解決されてしまった」ということだと思うんです。だから、パレスチナ問題のような解決がきわめて困難か、もしかしたら解決できない問題しか残っていないんじゃないか。
山田 政治家は常にどちらか、立場をはっきりしろ、と迫られるので、いつも厳しい立場だと思っています。
DD(どっちもどっち)でやっていくしかない
橘 最後にもう一度、言っておきたいのは、きれいごとを言っていたらきれいな社会ができるわけではないし、多様性のある社会を作ったからといって、生きやすい社会になるわけじゃないということです。
多様性を推し進めていくと、価値観の衝突でどうしてもギスギスした社会になってくる。表現の自由も、みんなが自由に表現すれば、そのなかに気に食わないものや、不愉快なものがたくさん出てくる。でもリベラルな社会に生きていくのなら、「私はあなたの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る」というリベラリズムの原則を、すくなくとも受け入れなければならない。そのことがまったく理解されていないから、「リベラル」を自称する人たちが、「政治家を使って、国家権力で不快な表現を規制すればいい」という運動の先頭に立つようになったのではないか。そう考えると、けっこう絶望的な気分になります。
山田 だから、これは決してカンファタブルな話じゃないし、さまざまな秩序からすれば、表現の自由なんかない方が実行しやすいし、守りやすい。だけど、すごく感性的になっちゃうかもしれないけれど、人として、最後は表現の自由がなかったら、メチャクチャつまらない世界になるし、何もクリエイティブなことはなくなるし、エキサイティングなことも、たぶんなくなっちゃうんじゃないかなと思います。
橘 オーウェルの『1984』ではないですが、国家に表現を規制された社会なんて、すごくつまらないに決まってます。でもこういう総論にはみんな賛成するんだけど、実際に自分が不愉快なものにぶつかると、「これは話が別だ」「表現の自由は大切だが、これだけは許せない」などと、あっさり自分の判断を正当化してしまう。
山田 だから、僕は政治家として、ギリギリすごいなと思ったのは憲法21条に表現の自由が謳われているということです。表現の自由に関しては、法律も何もないんですよ。たった1つ、憲法21条に表現の自由と謳われていて、これが唯一のよりどころ。これがなかったら、僕は何をよりどころとして、表現の自由をがんばっていけばいいのか。
やっぱり表現の自由、憲法21条を支持している人たちは実はいっぱいいるから、何か本質的にはきっと表現の自由は守らなきゃいけないっていうことは、みんな理解していると思うんですね。
橘 日本社会は同調圧力が強いから、その唯一のよりどころがなかったら、あっという間に中国みたいになってしまうでしょう。「何が正しいかはお上に決めてもらうのがいちばん安心」とみんなが言いはじめたりして…。でも今、日本にたくさんの中国人が移住してきてるじゃないですか。これは日本のほうがソフトパワーがあるからで、その源泉が日本にあって中国にないもの、すなわち言論・表現の自由なんだと思います。でもそれがどれほど貴重なものなのかは、失ってみないと気づかない。
山田 そうです。多様なあらゆる選択肢があるのは表現の自由があるからでしょう。それがなければ、選択肢がなくなるわけですから。
橘 そうはいっても、不愉快なものは見たくないという自由もあるから、そこは難しいですよね。ゾーニングがうまくいかなくなると、あとは価値観の衝突が起きるだけで、それは原理的に解決不可能だから。
山田 だから、その間に立って、私は日々奮闘しているんです(笑)。双方の言い分と権利を守りながら。
橘 さっき話したDD(どっちもどっち)でやりましょうよ、と言うしかないですね。
■作家・橘玲×国会議員・山田太郎対談前編「そもそも「表現の自由」って何なのか? マンガやアニメにとんでもない規制をかけようとする新サイバー犯罪条約・14条とは?」
構成/井口稔