戦争は突然、起こるわけではない。小さな対立がエスカレートし、開戦までに複雑な経緯をたどる。そしてその際、国内では必ずもう一つ戦争が繰り広げられる。
国民を戦争に駆り立てるため、政府や軍は社会の異論を封じる。国民教育を徹底する必要があり、標的になるのは学校、とりわけ最高学府の大学だった。それは「文化戦争」と形容できるものだ。
連載の1~3回で述べたように、早稲田大学では、「古事記や日本書紀は史実ではなく、皇室が国民を支配する思想を前提にした創作」という学説を唱えた津田左右吉教授が、軍部や右翼勢力の攻撃を受け辞職。ほかにも社会主義や自由主義的な思想の教授らが排斥を受け教壇を去り、慶應大学では著名なリベラリストだった塾長の小泉信三が、日中戦争や真珠湾攻撃を擁護するまでになった。
異論の封殺で大学は窒息状態になり、そして戦時体制へと入っていくのだ。
大学誕生時から政府の思惑を反映
近代国家の統治機構担う人材育成
六大学の原型ができていった第一期は、1868年(明治元年)の明治維新で新政府が成立し、憲法制定と国会開設が大きな目標になった時期だ。
大日本帝国憲法が89年に発布されると、翌90年には帝国議会開設、「忠君愛国」を基本にした教育勅語も制定された。明治政府は、近代国家確立のために西洋の知見の吸収や統治機構の整備を進めるが、幕末に締結された不平等条約を改正するため、官僚育成や法律制定、法律実務を担う人材の育成が急務だった。