「帝国大学」が発足したのは、憲法発布の3年前、帝国大学令(1986年)による。昌平坂学問所など幕末からの教育関連機関が統合した東京大学を抜本的に再編し、帝国大学を設立した。97年に京都に帝国大学ができると、東京帝国大学に改称した。
日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)の勝利を経て、日本では「一等国」の意識が高まっていくが、私立学校は高等教育の中の高等専門教育を実施する機関として、03年の専門学校令で、法的に位置付けられた。
早稲田や明治、法政など前身が法律専門学校色の強い私学が多かったのは、当時の時代の要請だった。大学に昇格したのは、平民宰相の原敬首相時代に公布された大学令によってだ。1920年(大正9年)2月に慶應と早稲田、同年4月に明治と法政、22年5月に立教が正式な大学になり、六大学はそろうことになる。
だがこの頃まで、大学の自治をめぐる騒動は一部であったが学内にとどまり、社会を揺るがすものではなかった。
左右勢力の台頭・対立の第2期
社会問題への感度が高まる
満州事件を機に戦時色、介入が強まる。第二期の1920年前後から31年の満州事変までは、共産主義の台頭と弾圧の時期だった。ロシア革命をきっかけにマルクスの経済学や思想に対する関心が高まる一方で、18年(大正7)の第一次世界大戦の終結は、戦争への反省を生んで平和を求める動きが強まり、日本でも「大正デモクラシー」と呼ばれる民主的な気運が高まった。
この時期は、共産主義と民主主義が知識人の関心を集める時代で、大学ではマルクス経済学など関連の講義が増え、社会問題に対する感度を高めた学生が活発に動いていく。