その背後には、「万人万物が多様で爆発的な創造性を持つ!」ことへの信念があります。今回のテーマ事業も、そんな多様な創造性をみんなが発揮できるような、創造性の民主化社会・文化の構築を促進できる内容にしたいと考えたからです。

 このとき闇鍋会議のメンバーから出てきたのが、「創造性には恐いイメージを持つ人も多い」というものです。「自分には創造性がない」と思っている人が日本には多い。

 実際、若い人たちの中には「自分には『創造性』がないと感じて、落ち込むこともある」と答えた人もいました。「いや、そもそもどうやったら創造性とは育まれるのか」……などの話も出ました。

 他にもいのちが高まった瞬間として、「いのちの危険を感じたとき」や「友人や家族の余命を宣告されたとき」を挙げる人もいました。これまで考えたことがない「いのち」について考え、初めて「いのち」の価値に気づいた。このとき「いのちが高まった」というのです。

 みなさんも、改めて考えてみてください。あなたはどんな瞬間を思い出しますか?

クラゲは「得たいの知れないもの」の象徴

 遊びも、遊び方が決まっているものより、揺らぎのある遊びが大事で、そこから多様性が生まれ、創造性も生まれる。揺らぎのある遊びから、創造性が生まれるというわけです。

 つまり、創造性やいのちにとって大事なものは、「揺らぎのある遊び」ではないか。

 そうした話を散々する中で、徐々に「万博は技術博といわれることもあるが、 根本的に大事なのは技術の発展を見せることではないのではないか」ということが、みんなの中で総意となってきました。前回の万博でも、岡本太郎はそう考えたはずです。

 そもそも、太陽の塔を見て、誰が「この技術がすごい!」と思うのか。なかにはすごい技術もあったかもしれませんが、そのことを微塵も感じさせないほど、強烈な、いやったらしい存在感がある。もはや「岡本太郎の素晴らしい芸術作品」とも私には思えない。ただ、太陽の塔は、そこにいるのであり、それは万人万物のいのちの讃歌だと思うのです。

 一方、太陽の塔は、元々壊される予定だったものが市民たちの強い希望により残されることになりました。そこにあったのは、みんなの、技術への造詣ではなく、なんともいえないエネルギーであり、その根源にはいのちや存在への大肯定があると私は思っている。