どうでしょうか、これらのシチュエーションと似たような悪意をあなたももったことはありますか?
どれもやさしいこととは真逆で、少し笑ってしまいそうなほどコテコテの悪意/意地の悪さですが、実際に人々がどれほどの悪意をもっているかがこれらの項目から調査されました。
するとどの項目でも、5~10%の人が自分に当てはまると答えたようです。
そこまで多くはないのでほっとしますが、人はイライラしていたり、不安だったりと余裕の力が減っているときに、そうした行動に走りやすくなるものです。
悪意には相手を打ち負かすこと
あるいは想像することによる快楽が伴う
やさしいが、「たとえ自分が損をしてでも、相手のために自分のコントロール権を手放すこと」とすれば、悪意とは、「たとえ自分が損をしてでも、相手のコントロール権を奪い、損害を与えること」と述べてもいいかもしれません。
しかも悪意には相手を打ち負かすことによる快楽、あるいはそのことを想像することによる快楽が伴います。私はそれを「殺人の快楽」と述べています。アリストテレスも同様に「復讐への期待から生ずるある種の快楽(*4)」が存在すると明確に述べています。他人の不幸は蜜の味という「シャーデン・フロイデ(不幸の喜び)」も有名ですね。
(*4)アリストテレス『弁論術』(戸塚七郎訳、岩波文庫、1992)162頁
私たち人間には、他人を陥れ、罰を与えることで喜びを感じたい怖い側面があるということです。
これと同様に、深い人間観察が得意だったロシアの小説家のドストエフスキーも、人間を他の動物と区別する理由のひとつとして、人間だけに他人を呪おうとする特権があるとはっきり述べています(それを特権といえるのかは微妙ですが……)。
「ところで呪うことができるのは人間だけだから(これは他の動物と人間をもっともはっきりと区別する人間だけの特権である)、どうやら、人間は呪っているだけでも目的を達することができる勘定になる。つまり、自分が人間であって、ピアノの鍵盤ではないことを、ほんとうに得心できるわけなのだ!(*5)」
(*5)フョードル・ドストエフスキー『地下室の手記』(江川卓訳、新潮文庫、1970)49頁