強い悪意は私たちの自由を奪い
ピアノの鍵盤にしてしまう
ドストエフスキーは、誰かを呪うことで、人間はピアノの鍵盤のような機械ではないことを証明できるのだといっています。たしかに特定の誰かを呪いつづける執念をもつ動物やAIのようなものに、私はまだ出会ったことがありませんので、その通りなのかもしれません。
しかし他方で、強い悪意は、私たちの思考や行動を強迫的に縛り付けてしまうものでもあります。だとすれば、むしろそれは私たちの自由を奪う=ピアノの鍵盤にされてしまうようにも思えます。
さらに若くして亡くなったフランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユも、自分に生じた不利益を外部に悪意として放出したい強い思いに何度も駆られていたようです。
「頭痛に襲われて痛みがひどくなる途上で、ただしいまだ最悪の状態には達していないときに、だれかの額のきっかり同じ箇所を殴って、そのひとを苦しめてやりたいという烈しい願望をつのらせたことがあるのを、忘れてはならない。これに類する願望はじつに頻繁に人々のあいだに認められる(*6)」
「悪を自己の外に撒きちらす傾向、わたしにはまだそれがある(*7)」
家具などに足の小指をぶつけて激痛が走ったとき、その声にならない苦悶を何かに対してぶつけたくなる気持ちはよくわかります。
なぜ自分だけがこんな痛い目に……という経験をすると、その不均衡な損害のバランスを外部のものに害を与えることで回復しようとする。その均衡を維持しようとする力を、ヴェイユは「重力」と呼びます。これは物理的な力というより、他人への暴力を連鎖させる暗い力のことです。
(*6)シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』(冨原眞弓訳、岩波文庫、2017)14頁
(*7)同上、18頁