「八百屋お七」は十代半ばで火あぶり
220年で20万人が処刑される
恋い焦がれる相手に会いたい一心から放火事件を起こし、火刑に処されたと伝えられる八百屋の娘、お七。歌舞伎や文楽、さらには井原西鶴の『好色五人女』の中でも取り上げられるなど、現代にも絶大な知名度を誇るこのお七は、実在した人物なのである。
事の経緯については諸説あるが、江戸前期の見聞記『天和笑委集』の記述を信じるなら、お七は天和の大火(1683年)で八百屋を営んでいた生家を焼かれ、正仙院という寺に避難。そこで小姓、庄之介に恋をする。
家の再建によって寺から引き上げた後も庄之介への想いは断ち切れず、ならばもう一度家が燃えれば、庄之介に再会できるのではないかと彼女は考えた。
幸い、お七がつけた火はボヤで終わり、江戸に大きな被害をもたらすことはなかったようだが、お縄となった彼女は放火の罪で火刑に処されることになる。まだ十代半ばの若さだった。
なお、鈴ヶ森刑場では1871(明治4)年の閉鎖まで、220年の間に20万人もの罪人の処刑を執行したと言われている。
その中にはお七のほかにも、自らを江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の落胤と称して世を騒がせた天一坊や、シリアルキラー宜しく辻斬りを重ねた平井権八、夫の殺害を企てて捕縛された材木問屋の娘「白木屋お駒」など、今日に名を残す受刑者も少なくない。
他方では、「士農工商」という厳格な身分制度を敷いていた江戸時代において、事件が迷宮入りすることは役人にとって恥とされ、いつの間にか犯人に仕立て上げられた、無名の市井人も多かったという。
この鈴ヶ森刑場跡に漂う空気が、どことなく無念や悲痛を思わせるのも、そうした無実の犠牲者たちの怨念によるものかもしれない。