晒し首に磔刑、火刑…
あまりに残酷な江戸時代の処刑法
江戸時代の刑法をひもといてみると、禁固刑や懲役刑に相当するものはなく、牢獄に置かれるのは未決囚のみであったという。囚人は罪状が確定すると、直ちに死罪や遠島(島流し)、追放などの刑に処されるのが常で、これらは比較的軽い罪に適用された。
より罪の重い者に対しては、段階として獄門、そして磔の刑がある。獄門とはいわゆる晒し首のことであり、斬首刑執行後に晒すケースもあれば、戦死もしくは自害した者の首をはねて晒すケースもあった。
また、磔とは文字通り罪人を十字架に縛り付け、執行役が槍で突き刺す死刑のこと。多量の出血と痛みを伴う処刑法で、死体はそのまま3日ほど晒されることもあったという。

一方、火あぶり(火刑)は磔刑のさらに上を行く極刑のひとつだったようで、当時はとりわけ重罪とされていた、放火犯などに適用されることが多かったという。罪人はやはり十字架に磔にされ、その足元に薪を積んで火をつける、文字通りの刑である。
見せしめの役割も担っていたようで、点火の際には多くの人々が見物に集まった。火あぶりでは即死することもできず、罪人は数分間にわたって熱さと火傷に苦しんだ後、自らの身を焼く煙によって窒息死することが多かったという。
この鈴ヶ森刑場跡で、実際に火あぶりに処された人物の一人に、あの「八百屋お七」がいる。