「ケロリン桶」誕生50周年で大ブレイク!ハンズ、ロフト…販路が拡大したきっかけとは?Photo:PIXTA

富山の内外薬品が、自社の解熱鎮痛薬・ケロリンの広告戦略として生み出した「ケロリン桶」。今ではすっかりお馴染みのアイテムだが、その知名度の背景には、昭和後期の内外薬品を支えた社長・笹山忠松と、桶の発案者・山浦和明の存在があった。2025年で100周年を迎え、今なお進化を続けるケロリンの歩みを見ていこう。※本稿は、監修・笹山敬輔『ケロリン百年物語』(文藝春秋)の一部を抜粋・編集したものです。

1人でも走り続けてきた
ケロリン桶発案者からの相談

 平成24(2012)年秋、東京支社長だった笹山敬輔は、山浦から「会社を廃業したい」と相談を受け、江戸川区にある睦和商事の事務所をはじめて訪れました。睦和商事は山浦がケロリン桶を発案後に立ち上げ、社長兼営業マンとして桶を販売していた会社です。

 1階はケロリン桶が山のように積まれ、中2階の事務室の壁には、訪問した温泉が塗りつぶされた日本地図と、忠松との思い出の写真が飾ってありました。

 全国の銭湯は年々減少していますが、旅館やゴルフ場にも納入し、さらには一般向けの小売りを含めて累計250万個のケロリン桶を販売してきました。山浦はすでに70歳を過ぎ、後継者もいません。57歳のときに心筋梗塞を患ってからも車に桶を積み、1人で日本全国を走り続けました。

 敬輔が子どものころ、家族旅行にはいつも山浦が一緒でした。足が悪い祖母の慶子のために、運転手を買って出たのです。山浦はケロリン桶を採用してくれた忠松への恩義を生涯忘れませんでした。山浦は手塩にかけて育てたケロリン桶の存続を願い、その思いを忠松の孫の敬輔に託そうとしたのです。