ところが次女のほうは結婚相手がふさわしくないと反対されたので、自分たちの身銭を切って結婚式を挙げ、新居も自分で用意した。住宅ローンを返すのに精いっぱいで子供を産む余裕もなく、親からは「おまえは孫の顔を見せてくれない」と嫌味を言われ続けた――そんな次女にとっては、これまでのアンバランスを遺産相続で取り返したいと思ってしまうことになりかねない。

 たとえ財産的欲求に駆られたバカが入っていなくても、紛糾の理由はいろいろ出てくる。百の家族には百の事情があり、千の家族には千の事情がある。さらにそれぞれの配偶者という存在がある。

 先ほどの例で言えば、長男の妻は、夫が高卒で働かなくてはいけなかったから、いろいろ損をしたと長男以上に感じているかもしれない。次女の夫は、次女以上に冷遇されてきたという口惜しさを抱いているかもしれないのだ。そうなってくると、紛糾にさらに拍車が掛かる。

 親の介護がなかったとしても、揉めてしまう可能性はこのようにあるのだが、介護が絡むとさらに複雑で、重いことになる。

 それは、命というシビアな要素が関わってくるからだ。

終わりが見えない介護は
育児とは真逆

 育児はもちろん大変であるが、大半の場合は、ハイハイができるようになる、立てるようになる、言葉を発するといった成長過程を経ていく。そして、だんだんと手がかからなくなっていってくれる。

 可愛い幼児の澄んだ瞳や素直な笑顔には癒やされるし、仕事への活力や生きがいになってくれることもある。あと2年したら幼稚園で、その次は小学校だという青写真も描ける。

 だが、高齢者の介護は真逆である。だんだんと衰えて援助が増えていく。耳が聞こえなくなったり、目が見えなくなっていくこともある。認知症となれば、わけのわからないことを口にし、徘徊が始まることもある。

 かつては壮健だった親の心身の衰退に直面するのも辛い。抱え起こすのも、幼児と違って体重があるので一苦労である。尾籠な話になるが、排泄物の量も匂いも大きく違う。

 そして、いつまで続くのかという見通しが立たない。青写真など描きようがない。重い介護からの解放は、要介護者の死しかないのだ。