それでユダはイエスが死刑になろうとするとき「こんなはずじゃなかった。お金は返すからイエスを解放してください」と願い出ました。しかしそんな願いは聞き届けられるわけもなく、自分のしたことと、それが招いた結果に絶望したユダは自ら命を絶ちました。
ユダは「師匠がちょっと考え方を変えてくれたらいいなー」くらいの軽い気持ちで、イエスをローマ兵に渡したのかもしれません。だとすれば、僕たちもまた時として同じようなことをしてしまっているんです。

「ちょっとこらしめてやれ」が重大な結末を招くと言えば、現代ではSNSなどでのいわゆる誹謗中傷がそれにあたるかと思います。誹謗中傷を苦にして亡くなってしまう方が出ても、誹謗中傷した側は「そんな結果になるとは思っていなかった。ちょっとこらしめようと思った」くらいの気持ちでいることがほとんどです。その点で言えばむしろユダの方が(もちろん自ら命を絶つのは絶対にいけませんが)自らの過ちと結果に苦しんだ分だけ、良心的とさえ言えるかもしれません。
何事につけ「具体的に!」と要求される社会ですが、具体的な考えは今この場にしか役に立ちません。一方で批判されがちな抽象論は時も場所も超えて役に立つものです。抽象化というのは、あらゆる生物の中で人間にだけ与えられたツールでもあります。
「目の前の現実」だけに目を向けて、未来や抽象論を語る人を「現実的じゃない!夢想主義者だ!」と糾弾してしまうことは、現代社会にもよく起こることですし、僕の中にも時として同じような気持ちが起こることもあります。そんなときには「心の中のユダ」が頭をもたげているのかもしれません。