「被害妄想」という言葉がありますが、私は「被害妄想」ではなく、「被責妄想」のほうが日常生活における影響は大きいと思っています。「害」ではなくて「責」、つまり自分が責められているという妄想です。
本当の自分が許されていないので、「これできなかったの?」「やっておいてもらえなかったの?」と言われると、自分が責められたと思い込んでしまうのです。
被責妄想の人は自分は責められていないのに、そうだと思い込んでしまうので、努力すれば努力するほど世界を敵に回してしまい、ますます生きづらくなります。
人と話をしていて「これやっておけば良かったね」と言われたことを「お前がこれをしなかったから悪い」というように、何でもかんでも自分が責められているように考えてしまう。
そうなると本当に正常な発達というのは、もちろんできません。
心は未熟なままなのに
社会的地位だけが上がる不幸
我々は共同体の中で成長していきますが、不安な人はその中の個人としては挫折しているということです。正常な発達ができておらず、自分は敵意の中にいると感じているのです。
そうした敵意の中で自分の安全を守るには、「自分はすごい」「とても強い」と、自分の力を誇示する以外に方法はありません。
他人に優越する他に、自分の安全を維持する方法がないので、内面に壮大な自画像のようなものを持って、それにしがみつくことになるのです。

こういう人は、当然のことながら心理的にはまったく成長しません。その一方で、社会的、肉体的には成長して40歳、50歳になり、会社であれば年齢相応に偉くなります。
ところが、家に帰ると人が変わります。奥さんに言わせれば「もう会社とは別人」のような状態になるのです。まさにスイスの法学者、文筆家であるヒルティが言う「外で子羊、家で狼」です。
優越を求める努力と、仲間意識を育成するのとは本来、逆のものです。優越を求めれば求めるほど、心の底のそのまた底では、孤独になっていよいよ不安が募ります。
ですから、不安の原因の第1としてあげた隠された敵意と、2つ目にあげた自分が自分でない人という原因は、まったく別なものではなく、本質的なところでつながっているのです。