他人ばかり意識して行動すると
自分の意思で動けなくなる

 例えば、別に楽しくもないのに、人に気に入られようと思って「楽しい」と言うことがあります。親子で家族旅行に行って、子どもは別に楽しくない、逆につらいのに、両親を喜ばせようとして、自分の気持ちに嘘をついて「楽しい」と言うような場合です。

 このように、必死で自分に嘘をつくことがあります。これは同時に、非現実的な理想の自分を無理して演じているということです。

 人間は安心を得るために無理をしますが、無理をするというのは実際の自分よりも素晴らしい自分を人に見せようとすることなので、演じるのは「非現実的な理想の自分」でなければなりません。そのために、自分と他人を比べてさまざまな努力をするのですが、その努力には何の意味もありません。

 その努力によって本来の能力が開発されるのなら意味はあります。しかし、こうした努力は人生の課題に積極的に立ち向かうためのものではないので、能力を開花させるどころか、逆に試練に立ち向かう能力を奪ってしまいます。

 本来、「パーソナリティーは一定の段階を経て成熟していく」のが人間です。これについて、イギリスの精神科医ボールビーは20世紀の時点で、「パーソナリティーは一定の段階を経て成熟していく」ということは、「前世紀において確立した議論だ」と言っています。

 しかし、それが可能な環境に生まれる人も、そうでない人もいます。

 自立に向かって励ましながら育ててくれる親のもと、愛に育まれて成長する環境に生まれる人もいれば、虐待されながら成長する人、その人の適性とは、まったく違ったことを要求されて成長する人もいるのです。

 アメリカの精神科医サリヴァンによると、「不安というものは、幼児が自己の対人関係の世界内での重要な人間から認められないということを気づかう『apprehension』なとき生まれてくるのである。意識的認識ができるずっと以前に、幼児が母親との不承知を感づくとき、不安が強く感ぜられるのである。」(『不安の人間学』ロロ・メイ〈著〉、小野泰博〈訳〉、誠信書房、118頁)

「自我の形成は、承認される活動と承認されない活動を区別する必要から生まれる。」(前掲書『不安の人間学』118頁)

 つまりサリヴァンは、自分が意識する前にすでに不安になっていると言っているのです。