ちなみにこのような大学や部局、さらには学問分野による評価基準の違いはある程度は、やむを得ないものである。
なぜなら、たとえば日本で日本国内の法律を研究している人にとって、論文とは国内法曹関係者に読んでもらうためのものであり、それゆえ、彼らには英語で論文を書くインセンティブはあまり存在しないだろう。
対して多くの自然科学系の分野では、論文は国際学界に向けて書くものだから、日本語で論文を書いてもほとんど意味はない。さらにいえば芸術や体育等の分野では、実技や作品のほうが、論文よりも重要かもしれない。
学問の性格が違うのに、誰にでも同じ形式で研究成果を出せ、というのはナンセンスなのだ。
「教授」の肩書きだけでは
何ができる人かわからない
教員の採用や昇進の基準は、対象となる人事の性格によって変わることもある。そのもっとも典型的なケースは実務家教員の場合であろう。通常、企業や公務員から大学教員になる人々は、多くの論文執筆の経験もなければ博士号も有していない。
にもかかわらず、たとえば、大学の教育カリキュラム上、あるいは大学行政の進行上、彼らの助けが必要であり、そのために大学教員枠で採用しなければならない場合には、同等の研究業績を求めることは不可能である。だから、その場合には基準のほうを変えることになる。
こうして見ると、大学教員の採用や昇進の基準は、実はきわめてあいまいであることがわかる。
だから最終的には、「大学教授」とは、おのおのの大学や部局が業務遂行上の必要に合わせて、「教授」という職階を与えた人、であるにすぎない。だから、その能力もさまざまであり、「教授」になるのに必要な普遍的な能力、などというものは存在しないと思ったほうがよい。
教え子の就職先を確保しないと
自分の専門分野が大学から消える
大学教員に関わる映画やドラマでの定番のシーン。それは、新たなる教授の採用や昇進を巡って、教授たちが激しく議論し、批判し合う場面である。
そして、実際、大学教員たちは教授会その他の場所で、収拾さえ難しいような対立劇を展開することがある。部局長にとっては、頭を通りすぎて胃が痛くなる瞬間である。