活動状況には、徐連智が横須賀市でクリーニング業を営みつつ米軍情報を蒐集しているとか、王可光の杉並区の住所に毎週日曜日に高級車が2、3台駐車し、会合している模様などといった記述があり、日本側が内偵している様子が垣間見える。

スパイ活動を察知した日本は
密かに記録を積み上げていた

(2)(3)(4)には「資料處理表」という同じ体裁の表紙が付けられており、作成年月日は1952(昭和27)年10月6日と7日、作成者は全て「飯田事務官」となっている。また、本文は海上保安庁の用箋に手書きで記されていた。

 筆者が入手した内閣情報調査室1992(平成4)年4月作成の『職員勤務記録』によれば、「飯田事務官」は飯田忠雄のことと見られる。

 飯田は1952年8月、海上保安官のまま総理府事務官に兼ねて任命され、内閣総理大臣官房調査室勤務を命ぜられた。なぜ古巣の海上保安庁と関係が薄そうな中共の工作を調査することになったのかは分からない。

 続けて、別の諜報活動に関する資料を見てみよう。

(13)は、アメリカの雑誌『US・ニューズ・アンド・ワールド・レポート』の記者が書いた東南アジア全域に在住する華僑の動向をまとめた記事で、華僑1000万人が中共に傾きつつあり、世界最大の第五列(編集部注/敵の内部に潜んで破壊工作に従事する人々)になる可能性を指摘したものである。担当者は「西口事務官」とあり、『職員勤務記録』によると、国家地方警察事務官出身で、その後国際部門を担当した西口啓示のことと見られる。

(15)は、中国共産党の対外工作の動向を、東南アジア各国別に、こちらも華僑に焦点を当ててまとめたものである。

 表紙に「秘」とあり、はしがきには「アジア局第2課長」名で「本調書は、当課で入手した情報であり内容の正確度については問題あるも、中国共産党の対外工作の現状把握にはかなり役立つものと認められるので、執務の参考として印刷に付した」と書いてある。

 1955(昭和30)年に外務省アジア局第2課長が作成したもので、当時の第2課長はのちの中国大使で宮澤喜一の叔父にあたる小川平四郎だった。