和田は周りを見渡しながら少し考えると、同行した村人たちに話しかけました。

和田信明(以下、和田)「皆さんは誰でも命を持っているはずですが、その命はどこから来るんですか」
イスラム教徒である村人たちですから、当然、「アッラー(神)からいただいたものです」と答えます。

和田「では、その命は使い終わったら、誰に返しますか」
村人「地上の命が終われば、アッラーにお返しします」
和田「これは何ですか」
村人「洗剤のパッケージですね」
和田「このゴミは、もともとどこから出たものですか」
村人「お店で買った品物からです」
和田「その商品はどこから来たのでしょう」
村人「町の工場でしょうね」
和田「でもここにありますよね」
村人「誰かが使い終わって捨てたんです」
和田「あなたたちはアッラーから来たものはアッラーに返すと言いました。では、工場から来たものは本来、どこに返さなくてはならないのですか」
村人
「工場ですね」
和田
「では、これを捨てた人は、どこに返したのでしょう」
村人
「海です」
厳粛な顔つきになってきた村人に、和田が言い添えました。
和田「工場から来たものは、工場へ返す。陸から来たものは陸に戻す。海から来たものは海に返す。これがエコロジーなのです」
村の女性リーダーによると、この後、村人のゴミ処理についての意識が急激に高まり、ポイ捨てはずいぶん減ったそうです。さらには、簡単な分別処理への動きも始まったとのことでした。和田の名誉のために言っておきますが、これは、その女性リーダーと現地NGOのスタッフから、後日、本人のいないところで聞かされたものです。

「事実質問」はこうして生まれた

当時の私には和田の技は、はるか雲の上のもののように思われました。しかし、その後、仕組みを丁寧に分析し、エッセンスを見出し、体系化しながら自己訓練していくうちに、それは神業などではなく、訓練によって習得可能であるということがわかってきました。しかもその訓練は決して複雑なものではなく、「事実質問に徹する」という単純な実践の繰り返しでした。

ちなみに、和田のやり取りはすべてが事実質問ではありませんが、決定的な質問はすべて事実を尋ねるものとなっているのがおわかりでしょうか。たとえば、和田「これは何ですか」⇒村人「洗剤のパッケージですね」や、最後の、和田「では、これを捨てた人は、どこに返したのでしょう」⇒村人「海です」がそれでした。

事実質問術は、こうして、私が和田の「技」を盗んでいくことを通して、途上国援助から始まった舞台を、私たちの社会に広げて来たのです。

本記事は『「良い質問」を40年磨き続けた対話のプロがたどり着いた「なぜ」と聞かない質問術』に関する書き下ろしです)