色合いの違う都心と副都心
東京都庁は副都心に移転

 一方、都心に集中する首都機能を分散させるため、1958(昭和33)年に渋谷、新宿、池袋が「副都心」に指定された。1982(昭和57)年には、上野・浅草、錦糸町・亀戸、大崎が副都心に指定されている。1991(平成3)年には、東京都庁が新宿に移転した。

 1985(昭和60)年、当時の鈴木俊一・東京都知事が「東京テレポート構想」を発表する。もう一つの副都心である臨海地区の開発計画である。1988(昭和63)年には都知事の諮問機関「東京世界都市博覧会基本構想懇談会」が設置され、1989(平成元)年に、臨海副都心での「世界都市博覧会」の開催案が示された。

 当時、世界中の大都市はさまざまな問題を抱えていた。東京は、過密化を臨海部の都市開発という外延的手法で解決しようとしていた。そこで、「世界都市博覧会」において、進行中の臨海部開発という形で「21世紀の大都市があるべき姿を提示」しようとしたのである。バブルの最中のことだった。

 しかし1991(平成3)年には、バブル景気は終焉。臨海副都心のビルに入居を予定していた企業は相次いで撤退を決定した。資材高騰や建設労働者不足により、「世界都市博」の予算は膨れ上がる一方だった。1993(平成5)年には、東京臨海副都心での「世界都市博覧会」の開催が正式に決定された。期間は1996(平成8)年3月24日~10月13日の204日間。目標来場者数は2000万人だった。

 1995(平成7)年4月の東京都知事選挙で青島幸男知事が誕生した。青島知事は、世界都市博の中止、臨海副都心開発の見直しなどを公約に掲げていた。一方、東京都議会は、5月16日に「世界都市博開催決議」を可決した。

 青島知事は博覧会場を訪れて、準備の進捗状況に驚いたという。中止の場合には約1000億円の損失が出る。青島知事は事務局側からそう伝えられていた。開催するかどうかの決断のリミットは1995(平成7)年5月31日だった。青島知事は「世界都市博」の中止を決断した。