スマホに夢中な親の背中を見て
子どもは育っていく
物理的にある場所にいても、実際には別のところにいることは珍しくありません。信号待ちをしたり、スーパーのレジを待ったり、会議に出席していたりするとき、興味を惹くものがなくて退屈するなら、私たちはスマホを焦ったように取り出して、音楽を聴き、SNSを開き、誰かにテキストを送り、動画や記事をシェアしています。
このくらいならなんてことはありませんが、次の事例はどうでしょうか。
最近のティーンエージャーは、公園に向かって歩きながら携帯で話したりテキストを読んだりする親に育てられた。親は片手でテキストを打ちながら、もう一方の手でブランコを押していた。ジャングルジムの子どもを見上げながら電話をしていた。ティーンエージャーたちは、送り迎えの車中でも、家族でディズニーのビデオを観ているときも、親たちがモバイル機器を使っていたという話をする。(注2)
同じく2011年のタークルの本からです。電話というのがピンとこなければ、SNSや動画サイトなどと置き換えてください。
もちろんこれは一概に責められるものではないでしょう。
例えば、大人が観るにはいささか単調な同じ映画を、一緒に観てくれと何度も何度もせがまれることが微妙な気持ちにさせることは想像するまでもありません。思わずスマホを取り出したくもなるはずです。それに、親しい人との食事中にスマホを触るなど、今日ではもはやよくあることですよね。
持ち歩けるデバイスを使って、ここではないどこかで別の情報を得たり、別のコミュニケーションに参加したりすることが可能になった状況を、タークルは「常時接続の世界」と呼びました。スマホ時代の哲学のキーワードは、「常時接続」です。
常時接続の世界において生活をマルチタスクで取り囲んだ結果、何1つ集中していない希薄な状態について、特に人間関係の希薄さを念頭に「つながっていても1人ぼっち(connected,but alone)」と彼女は表現しています。
注2 シェリー・タークル『つながっているのに孤独』460頁