いろんなことに反応しすぎて
どれにも集中して向き合えない

 メディア論では、「人の感覚がテクノロジーによって書き換えられていく」という考え方をすることがよくあります。

「技術は中立的なものだ」と語る人がたまにいますが、これは実状に反しています。実際には、新たなテクノロジーは普及するにつれて、行動様式、感じ方や捉え方、ものの見方を具体的に変えていくのです。

 技術が感性のあり方を左右していくのだとすれば、スマホを手にした私たちはどう変わってしまったのでしょうか。

 問題点について考えるわけなので、この変化によって失われたものにフォーカスしてみましょう。

 技術について考える中で、私たちは原理的な問い、平たく言えば「そもそも論」に巻き込まれていくとタークルは言います。「私たちは本当に重要なものは何かという疑問に立ち返っていく」ことになるのだと。スマホの先にある「本当に重要なもの」とは何でしょうか。

 常時接続の世界で失われたもの。いろいろな論者の見解を私なりに整理して総合するなら、それは2つの観点から説明できます。それは、〈孤立〉と〈孤独〉です。それぞれについて言い換えれば、他者から切り離されて何かに集中している状態と、自分自身と対話している状態のことです。

 常時接続の世界の行動について立ち止まって考えればわかることですが、私たちは、反射的なコミュニケーションを積み重ねています。いろいろなものを保留しながら、短いテキストやアクションで表面的な返答を順次していく。

 例えば、こんな光景はありふれたものでしょう。対面で誰かと話しているときに、スタンプと短いテキストで4人にLINEを返し、フリマアプリからのお知らせをスルーして、早送り機能でソシャゲのストーリーを進め、X(旧Twitter)でいくつかの記事を熟読せずにリポストし、Instagramで気に入ったインフルエンサーの薦める服を保存しておく。

 ここで失われているのが〈孤立〉です。何か1つのことに取り組み、それに集中するにはあまりに気が散っていて、いろいろなコミュニケーションや感覚刺激の多様性が、1つのことに没頭することを妨げてしまっています。