「日本滞在中のスカルノ大統領を護衛してほしいという話が、インドネシアの駐日大使館から久保さんのところに持ち込まれた。それまで久保さんはインドネシアとは縁がなかったから、だれか知人を通じてだったと思う。それで久保さんは知り合いの暴力団幹部に頼んでボディーガード役や、羽田空港で歓迎の旗を振る人間の大量動員を引き受けてもらった」
桐島の役目は、帝国ホテルに泊まった大統領一行4、50人の世話係だった。
「彼らが街に買い物に出掛けたりする時の案内役だよ。スカルノさんは(日本の物価事情を知らないまま)副官らに『ナイトクラブに行って来い』と5ドル程度のおカネを渡すことがある。だがそれじゃどうにもならなくて副官らはこっちにたかりに来るから、僕は久保さんに『あいつがいくら欲しいと言っている』と話をつなぐわけだ。でも僕が久保さんからカネをもらって彼らに渡すようなことはしなかった。僕がそのカネを懐に入れたと疑われたらかなわないからね」
スカルノが飯田橋の料亭や赤坂のクラブに出掛ける時も桐島が車の運転手を務めた。スカルノは桐島のような若者にも気さくに声を掛けた。
「全然威張らないし、とっても親しみやすい人だった。それに全くおカネに興味がないというか、欲がなかった。業者からリベートを受け取ってもそれを自分個人の懐に入れたりせず、独立記念のナショナルモニュメントを造ったりする費用に回していたと思う」
スカルノ大統領と
デヴィ夫人の出逢い
翌1959年6月。東京の街は5年後の東京オリンピック開催のニュースで持ちきりだった。桐島は久保正雄の指示で赤坂のクラブ「コパカバーナ」に行った。再び来日した日本びいきのスカルノに日本女性を紹介するためだ。
