大戦中は日本軍のエリート参謀として数々の作戦立案に携わり、戦後は伊藤忠商事の海外ビジネスを足がかりに同社会長に登りつめた、瀬島龍三。ソ連のスパイであるとの噂が絶えないが、彼のもっとも重大な疑惑のひとつが、シベリア抑留に関わるものだ。日ソ中立条約を破って満州に侵攻したソ連軍との「降伏」交渉において、瀬島らは、満州にいた日本軍と日本人を差し出したとされる。筆者らの追及に対し、瀬島はどう答えたのか。※本稿は、共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(朝日文庫)の一部を抜粋・編集したものです。この本は1999年に新潮文庫から刊行されたものの復刊です。登場人物の年齢や肩書きなどは95年の新聞連載時のままです。
ポツダム宣言の後に
強行されたシベリア抑留
終戦約3週間前の1945年7月26日。

ベルリン郊外ポツダムで発表された米・英・中三国共同宣言(後にソ連も参加)は捕虜の本国送還をうたっていた。
「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且つ生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし」(第9項)
このポツダム宣言にもかかわらずシベリア抑留が強行されたのはなぜか。
抑留者の間でささやかれたのは日ソ「密約」説だ。その根拠は終戦前、元首相近衛文麿の側近が作った「和平交渉の要綱」案だった。
1945年7月10日。最高戦争指導会議は天皇の特使として近衛のモスクワ派遣を決めた。
形の上ではまだ「中立国」の立場にいたソ連に、米英両国への和平工作の仲介役を頼むためだ。
近衛は対ソ交渉の切り札として陸軍中将酒井鎬次に和平交渉の要綱を作らせた。要綱の「和平の条件」の中にはこう記されている。