トランプは仮想敵を作り出し
「戦う自分」を演じきった

 しかしそんな批判はもう通用しない段階に来ていた。民主党の側、リベラルの側も、トランプに勝つためには――少なくとも対等に渡り合うためには――、可能なことの範囲を超える極端を必要としていたのだ。

 ハリス側には欠けていて、トランプ側にあった(ように見えた)もの、それは、本来的な意味での政治だった、と言うことができる。

 ここで、「本来的な意味」という語を、カール・シュミット(編集部注/思想家、法学者、政治学者、哲学者)の「政治的なるものの概念」を念頭に使っている。

 周知のように、シュミットは、政治を政治たらしめている固有の区別は、敵と友の区別だ、と述べた。

 選挙なので、トランプもハリスも、相手を敵(ライバル)と見なし闘っているのだから、シュミット的な意味で「政治的」だったと言えるのではないか…と思うかもしれないが、そうではない。

 シュミットが念頭に置いているのは、誰が敵で誰が友かがわからない状況、両者の区別があいまいな状況である。そのような状況のもとで、誰が敵で誰が友かをはっきりと区別し、定義するのが政治の使命である、というのがシュミットの見解だ。

 ハリスは、敵を作るような断固とした選択から逃げ回っている。それに対してトランプは、敵と友との区別を設立していると言える。彼の主張する極端についてくることができない者は皆「敵」である。

 とりあえずは、少なくとも外見的には、トランプの側には政治としての政治があり、ハリスの側にはそれが欠けていた、と言ってよいだろう。もちろん、トランプの「政治的なるもの」は蜃気楼のようなもの、まやかしだ、ということにはなる。

 なぜなら、トランプは不可能なことが可能であること、それが期待通りのよき結果をもたらすことを示さなくてはならないが、おそらく彼は、具体的な成算もなく、またものごとの正しい理解もなく、それらを主張しているに違いないからだ。

 が、ともかく、表れとしては、トランプ側にだけ政治があるように見え、ハリスにはそれがなかった、そして後者が負けた、ということをまずは確認しておきたい。