訴えを起こしたのは、宗継昌(ジャッキー・ゾン)、宗ショウ[「女」へんに「捷」のつくり]莉(ジェシー・ゾン)、宗継盛(ジェリー・ゾン)と名乗る、3人の米国籍の人物である。彼らは香港上海銀行(HSBC)に設けられたジエンハオ・ベンチャー名義の口座の凍結と、同口座から昨年のうちに馥莉氏が引き出した約110万米ドルの返済を要求した。
その根拠として3人は、自分たちは「宗氏の子ども」であり、同口座は「父親」の宗氏が亡くなる前、3人のために馥莉氏に命じて開設し、最終的に1人につき7億米ドル、合計21億米ドルの家族信託基金とすることが約束されていたと主張した。
創業者の宗氏は天才的な商売人
宗氏が、1980年代から90年代の中国経済の急成長期において天才的嗅覚の持ち主だったことは疑いない。
1945年生まれの宗氏は、家庭の事情で大した学歴も身につけることができず、母親が教師をしていた小学校の用務員からキャリアをスタートした。42歳のとき、政府運営の赤字だらけだった学校用品販売部の経営権を取得。その名称を使ってリヤカーに子ども向けのジュースやアイスキャンディ、文具などを載せて売り歩いた。
半年後にはその利益と銀行から借りた資金を元手に、子ども向けの栄養食品工場を買収。その工場で栄養剤メーカーの加工生産を請け負った経験から、翌年には「ワハハ」のブランド名で中国初の子供向け栄養剤を生産し、これが大成功を収めた。そして、赤字経営だった国営缶詰工場を買い取り、そこから本格的にワハハ食品グループを立ち上げたのである。
ワハハは商品の範囲を子供向けから大人用へと拡大し、乳酸菌飲料やボトル入り飲料水なども生産するようになり、中国有数の大企業へと急成長を遂げた。
1990年代末には、中国市場参入を狙っていた、フランスの食品ブランド「ダノン」と共同出資で会社を設立し、ダノンブランドの製品製造と販売を手がけるようになる。その一方で、ワハハの自社工場で同社のライバルとなる製品を生産、販売していたことが後にダノンに発覚し、問題視される事態となった。
これを契機にダノンがワハハブランドを合資会社の傘下に置こうとして両者は契約を結んだが、その後次第に両社の関係が悪化していく。その間にワハハは主要業務を次々と合資企業から切り離し、ワハハ社員名義で設立したグループ企業へと移転した。その後両社は両国政府を交えた話し合いに発展したものの決裂し、最終的にダノンがワハハを中国で提訴することになった。しかし、ダノンに不利な判決が続き、最終的に話し合いによって両社の「離婚」が決まった。
この出来事は中国では「ダノンによるワハハ乗っ取り事件」と理解されている。そして宗氏は、「外資企業による乗っ取りを阻止した」経営者とみなされ、この時から「愛国企業家」と呼ばれ、ワハハも「民族企業」と称されるようになった。