「バナナの皮で滑ってコケる」がリアルにあった!ポイ捨て、立ちション当たり前…昭和の“道端”を振り返るIllustration:PIXTA

立ちション、ポイ捨て、吸い殻の山、思い返せば昭和の道端には“なんでもアリ”の空気があった。今なら迷惑行為として一蹴され、炎上ものの光景も、当時はごく普通の日常だった。では、あの懐かしい風景はいつの間に消えていったのか。生真面目で息苦しさすら感じる現代で、おおらかだった昭和という時代を振り返る。※本稿は、葛城明彦『不適切な昭和』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです。

誰でもどこでも吸っていて
吸わない男は変人呼ばわり

 喫煙率のピークは1966(昭和41)年で、この年の成人男子喫煙率は83.7%にも達していた(2018年の調査では27.8%※「JT全国喫煙者率調査」〈同年にて終了〉による)。吸わない男は「クソ真面目」「カタブツ」「ちょっと変わった人」のようにみられており、今とは反対に肩身が狭かった。

 当時は、電車内・バス内・飛行機内・飲食店・映画館・スポーツの試合会場から病院の待合室に至るまで喫煙OKで、基本的には吸えない場所など存在しなかった。

 昭和40年代前半頃までは、23区内の大手私鉄車内でも喫煙は可能で、ラッシュ時間帯になると車両連結部の幌の中で吸う人も多く、吸い殻はみな、床や連結板で踏んづけたりしていた。

 当然ながら、駅のホームも線路も吸い殻だらけ。そのため、当時の新人駅員の最初の仕事といえば、炭バサミとバケツを使っての、線路・ホームの吸い殻拾いだったくらいなのである。

 都や区の職員も、くわえタバコにサンダル履きという恰好で勤務しており、応対の時もタバコを離さない者が結構いて、タクシーの運転手なども吸いながら運転していた。学校の男性教員もほとんどが喫煙者だったため、職員室は決まって煙でモウモウ状態。灰皿は、どこの学校でも生徒に洗わせていた。