1958年発売の「チキンラーメン」の
ヒットでラーメンの呼称が一般化
1910年に浅草で開業した「来々軒」は、横浜の南京町の中華料理店に通っていた税関職員の尾崎貫一が脱サラし、南京町から広東出身のコックを招いて開業した店であった。来々軒は、1923年の関東大震災で焼失したが、いち早く復興し、1日何千人もの客を迎えるほど繁盛した。
「来々軒」という店名は、とくに第2次世界大戦後に多くのラーメン店、中華料理店に使われ、その名前がマンガや小説などにも登場した。
戦前に「支那そば」が東京名物としてブランド化されることはなかったが、戦後にみそラーメンや豚骨ラーメンが流行すると、鶏ガラなどを煮込んだスープがベースの醤油ラーメンが東京のものとして意識された。「来々軒」は、東京の醤油ラーメンを連想しやすい店名であった。
新横浜ラーメン博物館には、1927年頃の来々軒のメニューが展示されている。それによれば「らうめん」が20銭とあり、店でもっとも安い料理であった。来々軒の麺打ちを見た中国文学者の奥野信三郎は、「粉をまぜあわせて、きる前にひきのばしたりまるめたり」と書いている。
したがって、来々軒が「らうめん」と称して出していたのは、手延べ麺ではなく切麺であり、「拉麺」ではなく「柳麺」であった。
日本人がよく用いた「南京そば」という呼称は、1910~20年代頃までに「支那そば」へと変わった。第2次世界大戦後、「支那料理」「支那そば」「シナチク」があまり使われなくなり、「中華料理」「中華そば」「メンマ」という呼称が広まった。
これらとは別の「ラーメン」の語源については、広東系の細い汁麺である「柳麺(ラウミン)」とする説が有力である。
1884年に横浜で生まれた長谷川伸(編集部注/小説家、劇作家)も「ラウメン」と呼んでいたので、横浜から広まったのかもしれない。第2次世界大戦前には「柳麺」「柳めん」の表記がよく見られていた。
「ラーメン」という呼称は、1958年に発売された即席麺「チキンラーメン」がヒットして一般的になった。