応援を強制する教師
ひいては「世間」に問題あり

 最初は高校野球の強制観戦に批判的だった2人が試合を見ることで成長するって、批判精神を持っていた生徒たちが学校という共同体の秩序に順応するプロセスを良いものとして描いた、極めて道徳的かつ共同体中心主義的な作品だ。まあ高校演劇で賞をとる作品なので、高校野球が日本でものすごく特権化され、それがさまざまな問題を生み出していることの批判はできないのかもしれない。興味がないことを無理矢理やらされていた演劇部の生徒たちが同級生を応援するようになるというのは、教育の一環として演劇をやっている人たちには美しい展開なのだろう。しかしながら私は高校時代、図書委員だった時、見たくもない野球を暑い日に見せられたイヤな思い出があり、高校野球がそういうふうに特権化され、生徒が観戦を強要させられているのはバカげていると当時から思っていたし、今はさらに強くそう思っている。

 北村はここで、個人主義と集団主義(共同体主義)を対置させている。野球部などの〈体育会系〉は集団主義的である一方、文化部などの〈文化系〉は個人主義的であり、そのために全校応援の集団主義的な性格に対して反発を示す、というわけだ。

 しかし冷静に捉えれば、野球部員や体育会系の人々が必ず集団主義者であるわけでもなく、野球部員がみな「文化部の部員も俺たちの応援に全員が来るべきだ」と思っているとも考えにくい。ここで「強制」をしているのは野球部員ではなく、直接的には学校の教師たちであり、ひいては生徒たちの周りをとりまく「世間」であるだろう。