野球界では「眼鏡をかけた捕手は大成しない」というのが定説だった。視力が弱くてボールが見えづらいからなのか、キャッチャーマスクをつけていても、顔面にボールが当たったら眼鏡が割れる恐れがあって危ないからなのか、根拠は定かではない。
ただ、とにもかくにも「眼鏡の捕手はアカン」と言われ続けてきた。
それでも片岡は、自らも同じ捕手ゆえ、その強肩はもちろん、1988年のソウル五輪日本代表メンバーとして、日本人メジャーリーガーのパイオニア・野茂英雄とバッテリーを組み、銀メダルを獲得した捕手としての総合力の高さから、古田を高く評価していた。
1989年のドラフト前に監督に就任、つまりは1990年からヤクルトの指揮を執ることになっていた新監督は野村克也だった。昭和を代表する名捕手は、ドラフト指名に関しても何かと注文が多く、片岡が古田の指名方針を伝えても「眼鏡のキャッチャーなんかいらんわ。高校生の捕手を育てるから獲ってくれ」と嫌味を言い続けられたという。
当時はまだまだ、監督の方針が編成部門に強い影響力が及ぶ時代。それでも、片岡の意志は揺るがない。ちなみに、野村とドラフト指名を巡っての度重なる対立から生じた、その数々の生々しい舞台裏の話にも、何度となく笑わせてもらった。
ここでホームランを打ったら
何があっても古田を獲る
そのドラフト直前、トヨタ自動車・古田として、恐らく社会人最後となるであろう試合に、片岡も足を運んだ。
通常なら、もう評価が定まっている選手に関して、試合終了まで見るようなことはしない。それでも片岡は、この日ばかりは古田のプレーを最後の最後まで見続けようと、心に固く決めていたのだという。
「ここでホームランを打ったら、俺は何があっても古田を獲る」
スカウトの勘が働いた。俺が見込んだ男は、最後の最後にどんなパフォーマンスを見せてくれるのか。アマチュアとして、最後の打席になるかもしれないそんな時にこそ、きっと何か、どでかいことをやってのけるはず。長年の経験から、そんな予感がしたのだという。